夜泣き地蔵哀話

(秋田県)

その年、隣りの青森の南部藩は大凶作で、
米の作柄は2割5分であった。
秋田は3割5分作だったので、秋田へ行けば米がある、
秋田へ行こうと南部の人達は、
どんどどんどと仙岩峠を越えて田沢湖の生保内[おぼない]へやってきた。

そうやって峠越しにやって来る人達の中に、姉妹の一家があった。
27、8歳の姉と18、9歳の妹。
その姉のわらし(子ども)の5、6歳のと3つばかりのわらし、
生まれたてのとわらしも3人連れて、峠を越えてきたわけだ。

しかし、生保内も高いところにあるので、
南部とそんなに作柄は変わらない。
田沢湖の神代[じんだい]の方まで行けば、米も少しはあるし、
院内の金剛院では、新米のおかゆを食べさせているらしい、
という噂だった。

そこへ行ったらどうかと聞いて、この一家は金剛院を目指した。
姉は一人を背中にもう一人の手を引き、妹は3つばかりのわらしを抱いて、
中生保内[なかおぼない]へ向かった。

運悪く、何と雪が降ってきた。
その晩は中生保内の地蔵小屋に泊まって、一晩すごすことなった。
そうすると夜中じゅう妹は、

「寒い、寒い」

と泣いていたが、その内に声を出さなくなった。
仙岩峠を越えるころから、姉がままを食べなければ、
わらしに飲ませる乳が出なくなると、
自分は腹に何も入れなかったからである。
背負っていた子どもは凍えてしまった。

それで朝になって、姉が村の人達に頼んで、

「何とか面倒見てけれ、
何かもの食へてもらわえんねべか(食べ物をくれないか)

と頼んだ。
村の人達も

「オラも食うもんなくて、困っているところだどもヒャー。
ちちゃっこい握りっこ1つけで、
ほら、これ食って行けど(小さな握り飯をくれて、これ食って行け)

と、恵んでくれた。

それを食べて、田沢湖の周りの田子木から大沢まで行き、
院内の金剛院へ行こうとして薬師峠という峠を越えるところで、
また降り出した雪に行く手を阻まれた。
何とも前に進むことが難しくなって、大蔵観音堂まで来たとき、
ここで一泊しようと観音堂に入った。

そのときわらしが大泣きした。
腹がすいて、たまらなくひもじいのである。
それに寒い。火の気は何にもない。
こうやって凍えて死んでしまうよりも、少しでも早く院内の金剛院へ行って、
けっこ(おかゆっこ、おかゆ)を食へさせてもらおうと、
夜中に院内へ向かった。

そうやって院内まで来た時には明け方になっていた。
とうとう母も子も力尽きてしまった。
あと金剛院まで2丁かそこら、200m余りという地点で
行き倒れになったのである。

背中でわらしはオイオイと泣いた。

わらし等も疲れてしまって、母親の両手に抱かれて
倒れたまま寝込んでしまった。
そうやってしんしんと降る雪を被ったわけだ。

背中のわらしの泣声を村の人達は聞いたが、
まさか夜中に、わらしが泣いていると思わない。
翌朝、朝まになって、

“何だかゆうべな(昨夜の夜中)、わらしの泣き声、
聞けるっけえな(泣き声が聞こえたな)

と、出てみたら、
何と道路のまん中に、母親は両手で一人ずつわらしを抱いて、
背中にもちちゃっこいわらすコしょって、
そうやって死んでたわけだ。

村の人達はそれを見て駆け寄り、
しっかりしろと励ましたが無駄だった。
息のない母親が、ぎちっと両方の手で子どもを抱いている姿を見て、
村の人達は口々に言った。

「いやア、母親の姿ぞーノ、本当の母親の姿ぞーノ、
母親とはこういうもんだな」

かわいそうだと、皆してその親子の地蔵様を建ててまつった。

そんなことがあってから、ときどき夜中にわらしがおいおい泣きながら
村の中を歩き回るようになった。
おや? と思って外に出てみると誰もいない。
家に入ると、また泣き声がする。

朝まになって、みんなして

「ゆうべ、わらし泣くけーナ。わらし泣いて歩く音がするけども、
出てみれば誰も居ねーケ」

と、そういうことがあった。

「オメーも、見たけか? オレも出てみたども、誰もいねっけな」。

そうやって次の日になった。そこの家の婆[ば]さま、
コロッと死んじまったわけだ。

でほや!

(佐々木氏によれば、感嘆語だそうです。
方言でしか感じの出ない豊かな表現です)

婆さまが死んだからといって、その時は別に気にも掛けなかった。

そのうちに夏が来て、また夜中にわらしが泣いて村の中をうろついた。
あれっまた泣いている、今度こそ姿を見てやろうと、
外に出てみたが誰もいない。

次の日、昼過ぎに男わらし、川に遊びにゆくといって、水の吹いている川
(川水が底から湧き出ているような勢いを佐々木氏は絵を描いて教えてくれました)
に泳ぎに行って、死んでしまった。

そいで、わらしが泣くと3日の内にこういうことがある、
不思議なことだ、と噂になった。

次の年の冬になって、炭焼きのおやじが、

「さあ、今日、(炭)釜サ、木を詰めに行って来る
(炭を焼く釜に、炭用の木をぎっしり詰める)

と、朝まに出かけようとした。

あば「あー、んだ。(地蔵様が死んだのは)去年の冬だ。
地蔵様サ、この握りコ持って行ってあげてけれ。
今年は豊作だったナス、じっぱり(沢山)食って貰え」

といって、
親方に握り飯を4つ持たせた。(気持ちの暖かな奥さんですね)

親方は山に入る前に、地蔵様にお参りし握りコ4つあげて、
今日も守ってけろ、と拝んだ。

地蔵を拝んで、さて山へ行こうとした、その時・・・

何と全身金縛りにあったようにぎっちりと固まり、
立つことが出来ない。

「おやっ? おかし、中風当たったとこだべか(急に中風になったのか)
何としたことだべ!」。

身揺るぎを試みるが、ぎりっとも立つことが出来ない。

「おや、これだば大変だ。
まず今日へバ、オレ、家さ戻らねばならないな。
地蔵様、何とか家さだけでも戻してけれろ」

と、拝んだ。

何としたことか、家に戻ることにした途端、身体が軽くなって、
すぐに歩けるようになった。
山に行かずに、そのまま家路についた。

「あば、戻って来たでや」

「何したばー」

「地蔵様行ってよー、握りコ供えて拝んで、(山に)行く”と思ったども、
金縛りにあったようにぎりっと動かえねーしてよ、戻ってきた。
明日[あした]行くんてな、明日だ」

その日は一日休んで、次の日、あばは

“ほら、今日もこの握りコ持って行け”

と言いながら、握り飯を4つ持たせてくれた。

その日もそれを地蔵様に供えて拝んだが、
今日は不思議なことに何事も起こらない。

それから山に行ってみると、驚くべき景色が広がっていた。

炭釜は雪崩にあって跡形も無い。
あたり一面、びゃ-っと土砂で埋まり平になっていた。
それを目にしたおど(おやじ)は、どてんしたわけだ。

“いやあ、もし昨日来てれば、オレ、雪崩の下敷きになって
死んじまっていたんだ”

と、ぞっとした。

家に走って戻り

「あば、オレ、地蔵様のお蔭で命、助かったじゃあど」

「何しておったば?」

「何と(炭)釜、雪崩でやられた!」

自分は地蔵様のお蔭で助かったことを話した。
あばや隣近所の人を連れて、釜を見に行った。
なるほど、
きれいさっぱり何も残っていない。

村の人達は、その地蔵のことを六本杉のところにあったので、
六本杉の地蔵様と呼んでいたが、
それからは「夜泣き地蔵」という名前をつけて敬った。

夜泣き地蔵が泣いて3日めには、必ず悪いことがあるということになった。
それからは村の人達はこの地蔵を信仰して、
今もろうそくの火が絶えることはない。

はい、とっぴんぱらりのプー
冬の湯治湯写真
冬の湯治湯
(横手市、阿部隆氏撮影。
田沢湖町観光商工課提供)
刺巻湿原の水バショウ写真
田沢湖町、刺巻湿原の水バショウ
(田沢湖町観光商工課提供)
国道、鉄道沿線沿いで6万株という
群生はめずらしい。見頃は4月中頃。

スーちゃんのコメント



【語り部】 佐藤忠冶氏(1928年1月3日生まれ)
【取材日】 2003年8月19日
【場 所】 田沢湖町立公民館
【取 材】 藤井和子、黒沢せいこ氏(横手市)、千葉ミホ氏同席
【方言指導】 佐々木一生氏(秋田県東京事務所)

佐藤さんは、覚えている昔話・伝説の多くを
父方の祖父から、子どもの頃、聞いたそうですが、
この話は村の誰もが知っている話だそうです。

「今もなお、行ってみてろうそくがあがっていないことは、
まずないというという地蔵様です」

と、語りの後で特に付け加えられました。

昨今は暖かくなったとはいっても、
田沢湖町の積雪は1m50~60cmにもなるそうで、
この一家がどれほど難儀して
金剛院を目指したのか、と思います。