お夏と夏目沢
これは、田沢湖町の隣りの角館町の小松山城(角館城)にまつわる物語で、
主人公のお夏の生まれた田沢湖町神代に伝わるお話です。
城主だった芦名義勝をめぐる角館版・番町皿屋敷です。
昔、角館の殿様が
田沢湖の院内の大蔵観音にお参りになったことがあった。
帰りに神成沢[かんなりさわ]まで来たとき、
喉が乾いて山伏の家に立ち寄り
「お茶、飲ましれ(飲ませろ)」
と言ったそうだ。
(昔話の中の殿様は、お国言葉でお話しになります。
この辺が殿様の衣装をつけて、ことばにも威厳を付ける芝居と違います)
右手の家の奥80m。立て札もなく。
初夏の風がひゅーっと吹き抜けて行った。
そこの家の娘っこのお夏ア、お茶っこ出したら
「おみゃ~、おれと一緒に城サ行って、
“使い走り”やれや」
って言ったわけだ。
殿様の言うことに逆らうことは出来なくて、
父親の常光坊[じょうこうぼう]は
たった一人の娘を殿様の所に差しだした。
その殿様、まず色気の強~え殿様だった。
お夏のすぐそばの所からも
岩世という娘っこを連れて行き、
それどこも妾にしている、
そんなふうな人だった。
お城につくと、夜となく昼となくお夏に
言い寄ってきた。
お夏は
「おら、嫌だ」
と相手にしないで、殿様を袖にした。
さあ、殿様、面白くねえわけだな。
(そして、ひどいことになったのです)
あるとき城で宴を開いたことがあった。
殿様は、太閤秀吉から拝領した皿っこ10枚出して、
客にそれぞれ盛りつけて馳走した。
そうやって酒盛りが終わって皿を片付ける時になったんだが・・・
大変だ!
誰が割ったものだか一枚、割れていた。
お夏は
「おやっ、皿、割れてた」
といぶかしそうに言った。
すると、すっ飛んで来た殿様が真っ赤になって怒り出し
「その皿な、太閤様から貰った皿だ。
な(おまえ)、割ったべな(割ったんだろう)」
と怒鳴った。
本当は客の誰かが割ったらしいのだが、
有無を言わさない勢いでお夏のことを責めるわけだな。
お夏は
「おれは、割らねえ」
って必死で言ったが、
「この娘、どぶで娘だ(ふとい娘だ)」
とののしって、ずっとこずき回していじめた。
城にはいくら掘っても水が上がってこない空井戸があったわけだ。
そこへ娘を連れて行って
「この野郎、ここさ落としてけるど(ここへ落としてやるぞ)」
と、憎々しい声でおどした。
お夏は、落ちたくねえ、って井戸の台石にぎちっとしがみついた。
石さ、娘の手の跡が食い込むほどだ。
それでも何でも殿様はお夏をぶっ叩いて、
とうとう井戸に突き落として殺してしまったわけだな。
その晩から、殿様の寝ている蚊帳の外に、
幽霊が出はってくるようになった。
(“出はって”という言葉は、山形・青森・岩手の遠野でも語りの中で聞きました。
目の前に、急に現れたものを注視する感じでしょうか。関西では使いません)
幽霊は
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・、
一枚たりねえ、悔しい、悔しい、くやし~い」
って泣くわけだ。
(佐藤さんの語りは、“いちみゃ~、にみゃ~、さんみゃ~・・・”と、
まるで山羊がめえ、めえ鳴くように語尾がかすかに震えます。
テ-プを聞いていた秋田出身の佐々木さんは、
「爺っちゃ、上手いなあ~」と長いため息。
純粋の秋田弁は美しいよね、とスーちゃんも嘆息)
幽霊は恐い顔を向けて、フワッと殿様のところへ近づこうとする。
殿様、ムキになって、
枕元の刀で幽霊を切ろうとするが蚊帳を切るばかり。
幽霊がすっと向こうへ消えると、反対側から
「うらめしや~」
って出て来るわけだ。
何も見えない奥方はどてんして、“殿様、気が触れた”と大騒ぎ。
殿様は、確かにお夏の幽霊が出た、と言っては、
毎晩のように刀を振り回して暴れるようになった。
とうとう奥方は、
「とても、ここになば、居られねえ」
と言いながら、
西堀の土川の小杉山という所に逃げて行ってしまった。
殿様は毎晩のように、一人して刀を振り回し、
本当に頭がへんになって、
とうとう狂い死にした。
村人は、城跡の山上にありお夏がいつも洗濯をしていた沢を、
今なお、お夏の名をとって“夏目沢”と呼び、
お夏の投げ込まれた空井戸を“お夏の井戸”と呼ぶようになった。
芦名様へのたたりは止みそうもなかった。
その後、芦名家はどうなったのか。
殿様には、村から連れてきた美人の側室、岩世がいた。
この岩世(安昌院)様の生んだ盛俊、
幼名は千鶴丸が芦名家の跡取りになった。
ところが、ようやく20才になったばかりというのに亡くなった。
この人の息子もおかしな死にかたをした。
父親と同じ千鶴丸という、ようやく3つになる跡嗣がいた。
千鶴丸は、法事に出かけた時、菩提寺の縁側から落ちて、
しかも縁側の踏み石に頭をぶつけて死んでしまった。
それで芦名の城は、跡取りが居なくなって絶えてしまった。
子孫は居なくなったが、お夏の話だけが今も残っているんだと。
佐藤さんの先導運転で、
辰子の生家の隣にあるお夏の生家跡と、
岩世の生家(父は安部弥右衛門)の屋敷跡にも
案内して頂きました。
青い苗が彼方まで整列するたんぼの向こうに、
点々と散在する田沢湖の民家のたたずまい。
小学生が、きいきい声を立てて遊ぶ庭先よ。
寝ぶかけしそうな(眠り込みそうな)極上の安心感よ。
・・・さて、芦名義勝の話でしたね。
義勝は常陸の佐竹家から
会津の芦名家に13才で養子に入った。
のち会津から角館に移り、知行1万5千石を得て、
小松城(角館城)に住んだ。
ところが、奥方にも側室にも跡継ぎが出来ず、
お家断絶を心配する家臣の不安は
並み大抵ではなかった。
ほどなく、どういうわけか奥方(円通院)は、
小杉山(西仙北町)の別宅に移り住んだ。
義勝が、寵愛する側室、
京御前のもとに入り浸るのを嫌ったとも、
城に幽霊が出るのを恐れて、
とも噂された。
京御前が亡くなると、
すぐに義勝が目を付けたのは、
小間使いに上がっていた村娘、岩世であった。
義勝55歳、何と岩世は19歳だった。
義勝も忙しい人ですね。
正史のいうところでは、翌年、義勝は中風で倒れ、
2日後に56才(1631年)で没した。
岩世は、すでに身ごもっており、
父親の死後4カ月して生まれた男の子が
世継ぎの千鶴丸であった。
絶家の危機を免れた
家臣の喜びようは一通りではなかった。
・・・ところが、千鶴丸の息子も、
菩提寺の天寧寺に参拝しているときに、3才で妖死して、
ついに芦名家の家名は断絶、
再興はならないまま現在に至っている。
芦名義勝の資料:「ふるさと散策」
(佐藤忠冶著、2002年刊)