夏の田沢湖町へ
スーちゃんは、8月の暑い盛りに秋田県の田沢湖に民話を聞くために出かけました。旧盆過ぎの田沢湖の町中は人影もまばらで、早くも秋の風が柔らかく、忍び寄って来る気配でした。
宝生の珠と作左衛門[サクゼム]
(宝生の珠とは、キツネにとって二つとない宝物です。
作左衛門をここでは口伝えでサクゼムと発音しています。語り部の千葉ミホさんの口調は、ゆったりとよく透る、はきはきした話しことばでした)
昔むかし、田沢の大谷地というとこサ、
サクゼムという家があったト。
その家サ、じい(爺)とんば(婆)と
暮らして居たっけど。
じいは毎日、田沢湖サいって
クニマス取ってきて、
婆は、山一つ越えた田沢の村中サ、
売りに行っていたっけど。
(次からは目で追う場合の読み易さを考慮して残念ですが会話だけを方言にします)
婆[んば]は、行く途中の塞[さい]の神の峠で、
一服するのをいつも楽しみにしていました。
その日も好い天気でした。
婆はキセルに煙草を詰めて、ぷかぷかとふかしていると、
うとうとと眠たくなって、うたた寝(寝ふがぎ)してしまいました。
「もし、もし」
という声に、どてんして(びっくりして)はっと目をさますと・・・
毎日ここを通るのに、今まで会ったことの無い女[おなご]でねえか?
三角顔で、さっと(少し)まなぐつりあがった
色の白い女[おなご]でねえか。
「サクゼム(作左衛門)のクニマス売る婆だんしべか?」
「んだ、んだ。おりゃ(オレは)サクゼムのクニマス売る婆だでや~」
「その魚、みんなオレさ売ってくれないか(けねあんしべか)?」
婆は、本当のところ“えかった!”と思いました。
これから田沢の村中へ売りに行って
“クニマスいりませんか(えがたんしか)、クニマス買ってたんへ”と
一軒ずつ尋ね歩くのは気の重いことでした。
ここですっかり売ってしまえば難儀しなくて助かります。
婆は、そのおなごに売ってやりました。
財布にお金を詰めながら“えかった、えかった”と、
今日の幸運を喜びました。
足取りも軽く、きゃツきゃツと踊るように家に戻りました。
―― ところが。
銭っこを財布から出そうとしたら...財布からは、
うわっ!
木の葉がむらむらっと落ちてきたのです。
あれれっ、銭っこ、どこサ消えたのか?
そうです、財布には一文も入っていないよ!
「さあて、ありゃ化けギツネだったか、
オラどこ騙してクニマス皆、盗って行ってしまったな(けじがったな)」
と、腹が立って腹が立って(ごしゃげて、ごしゃげて)たまりませんでした。
“よおし、このかたき、取ってやるぞ”
婆は、地団駄踏んで悔しがりました。
次の日も、婆は峠でゆっくりと煙草を一服つけていました。
煙草の煙がぷかぷか、青空に消えて行きます。
うたた寝しそうな何とも気持ちのいい、一服です。
婆は、今日はキツネの好物の油揚げを
どっさり煮て持ってきていました。
考えがあったから~、ね。
おやおや、向こうから、あの目のつりあがたおなごがやってきたぞ。
婆の顔を見ると、
「クニマス、おらにみんな売ってきれ」
婆は、舌打ちしながら、
“よくも、おらが気が付いていないかと思って。
よく言うよ(えぐも、オレ知らねがと思ってぬげぬげど)”
と、思いました。
本当の気持ちはおくびにも出さずに、猫撫で声で言いました。
「このクニマスだば、田沢の村の人に頼まれてきただば、
おめえ様には、一匹も売らえにゃ(売れないね)」
そう言いながら、油揚げをちょろちょろ見せて
旨そうに食べ始めました。
そのおなご、キツネなものだから、
油揚げの匂いをくんくん、くんくん嗅ぎ始めました。
もうもう、食いたくて、食いたくてたまらなくなってね。
ぐるぐるぐるぐる、婆の周りを回り出しました。
「何とかして、おれサにも一つ食べさせてくれ(食[か]へてくれ)」
キツネの気持ち、丸だしです。ブレ-キがきかないとは、このこと。
食べたい、食べたいよ、と頼みます。
婆は、意地悪く言いました。
「だどもよ、これはあんまり旨くて(うみゃくて)、
あんまり惜しくて(いたましして)、
誰にも食わせられないよ(誰っさにも食[(か)]へられにゃ)」
婆の手元から口元へ吸い込まれる油揚げ...
目で追いかけ、首で追います。
腹をすかせた犬がお座りして、食い物を目で追って、
こんなにして首をふりますね。
女の目は妖しく熱を帯び、じりじりと音が出そうです。
ついに彼女は、気が狂ったように叫びました。
「オラの持っているもんだば、
何でもやるから食いたいよお(食[か]へてけれ!)」
婆は、“しめたっ”と思いました。
まんまと計略にひっかかって来たのです。
「んだか。そうなら(んだば)、おみゃ、
宝生の珠というもの持っているべ?
それ持って来いなば、一つやってもいい(一つけでもええ)」
宝生の珠というのは、キツネが持っている宝物で、
何でも願い事をかなえてくれる、門外不出の不思議な宝玉です。
女の頭の中は旨そうな油揚げのことでいっぱい、
気がヘンになっています。
宝生の珠がもったいない宝物だということをころっと忘れて、
「油揚げ、油揚げ」
とつぶやきながら、家にはねて帰り、
珠をつかんで戻ってきました。
女は婆の前で、油揚げをがつがつ食い始めました。
“油揚げ、みんな食[か]へねえ内に、家サ戻ろう”
婆は、思いました。
宝生の珠がいたましい宝物だということを思い出したら、大変!
早くこの場を逃げなくては・・・
雲を霞と(きっつかっちゃにして)すっ飛んで戻りました。
婆は誰にも言わずに、宝物を隠して置きましたが、
噂とは不思議なもの。
どうも“婆が、キツネを騙して宝生の珠を奪ってきたようだ”と、
噂が広まり、
誰一人知らぬ者とてなくなりました。
村人は
“宝生の珠を一目でいいから見せてくれ
(一目見てえ、ちょっと見せてけへ)”
といって、押しかけてくる有様です。
婆は、この人たちの中にキツネが化けていたら大ごとだ、
と気にして誰にも見せませんでした。
そうやって幾日か経つ内に、
佐竹の殿様から物々しい使いがやってきました。
「これこれ、婆よ、近いうちに殿が宝生の珠を見に来なさるから、
ご覧に入れるように
(近え内に殿様が宝生の珠を見に来るはで、見せてけれ)」
婆は、困りました。
“村の人達サは誰っさも見へなかったけど、
殿様に言わいれば見せねわけいがにゃ”
さんざん悩んだ挙げ句、ご覧に入れることにしました。
やがて殿様がお越しになる日がやってきました。
婆は、朝早くから村の人たちに手伝ってもらって
ご馳走をどっさり造り、
きつい酒も十分に用意しました。
粗相の無いように、
座敷にはご馳走を盛り付けた高脚の膳をずらっと並べ
用意万端整いました。
あとは殿様のお越しを待つばかりです。
婆は、晩方、殿様が到着する頃になったので家の後ろの小山に登って
はるか彼方の生保内[うぶない]の方を見ていました。
殿様は、秋田市から角館を通り、神代[じんだい]を抜けて
生保内を通って、この家にお越しになります。
そうこうする内に、
生保内の向こうに殿様と家来の行列が見えて来ました。
あまり遠いのでよく見えませんが、どうやら殿様は陣笠を被り、
陣羽織を着て長い刀を指しています。
もっとよく見ようとして思い出したのが、
アノ宝生の珠、
それを急いで取りに帰りました。
それを目に当てがって、向こうを見たとき...
婆はどてんして(びっくりして)、危うく腰を抜かすところでした。
・・・ 今まで立派な陣笠被っていたと思っていた奴ア、
頭サ木の葉っコサびたっと乗せて、
立派な陣羽織着ていたと思っていた奴ア、
木の葉っコとか花っコをぽちゃぽちゃつけて、
長い(なんげえ)刀指していたと思っていたのは、
木の枝っコをポキッと折って、それをチョキッと指しておった ・・・
殿様と家来の行列だと見えたのは、
何とキツネの行列だったのです。
宝生の珠を外して見ると、紛れもなく威儀を正した殿様と家来の行列、
宝生の珠を付けると、う~ん、キツネの行列だワ。
“さあてはキツネめ、オレどこ騙して宝生の珠、
取り返しに(とかしに)来たな、今に見ていれっ”
と、何やらファイトが沸き上がって来たのでした。
まもなく殿様の行列が威儀を正して、
婆の家に着きました。
「さあさ殿様、何と、遠い所をおいでくださいまして、
お疲れになったでしょう?
(おでむであったんしな、くたびれたんすべ)。
早ぐ座敷サ上がって、いっぺ飲んだり食ったりしてたもれ」
と、何食わぬ顔で言いました。
膳をずらっと並べた座敷に一行を案内するや、ご馳走をすすめ、
特に酒をどんどんついで、
イヤというほど飲ませました。
殿様も家来もたちまち酔っぱらいました。
我知らず尻尾をべろっと出したり、
だらしなく足をにょろりと出す奴も出てくるしまつです。
それでも殿様は、辛うじて言いました。
「婆、婆、早ぐ宝生の珠、持ってきて見せれ」
「はいはい、今、お見せ致しますが(見せるんすども)、
その前にオレの上手な
せあんじじ(才槌:わらを打つ槌)舞いを見てたもれ」
(千葉さんはきれいな声で、節を付けて歌います。
秋田民謡がお上手のようです。)
♪見っさいな、見っさいな、せあんじじ舞いを見さいな、ゴン
見っさいな、見っさいな、せあんじじ舞いは面白え、ゴンゴン♪
婆は、そう歌いながら、
才槌[せあんじじ]で殿様や家来の頭をゴ~ン、ゴンと叩いて回ります。
連中は、強い酒を勧められて、
しこたま飲んでふらふらになっていたところへ、
才槌でぎんぎん叩かれて、
がったりがったりとその場に延びてしまいました。
そうやっているうちに、やがて朝になりました。
朝日がぱーっ、ぱーっと彼らの身体に当たった途端、
たちまち正体を現してキツネの姿に戻りました。
そこで、村の人達みんなして、
キツネどもを生け捕って、
町へ引っ張っていって、高い銭っこで売れました。
村に戻って、飲めや歌えの大酒盛りをして楽しく過ごしたのでした。
(1925年7月5日生まれ)
同席は、佐藤忠冶氏
国鱒(クニマス、別名キノシリマス)は、
田沢湖だけに住んでいた鱒の一種(ベニマスの亜種)だったが、
戦時中に絶滅した。
なぜか・・・
不思議に思って辿って行くと「風が吹けば桶屋が儲る」式の、
「戦争になってクニマスが絶滅した」という、
人間とクニマスとの負の関係が浮かんできた。
田沢湖は国内最深、水深423.4mの湖である。
特徴は、湖岸から急に水深が深くなり、透明度にも定評があった。
1931年の透明度観測では、
摩周湖に次ぐ33mという記録を持つ。
ところが・・・
昭和15年(1940年)、第二次世界大戦中に、
国策として電源開発と農地開拓のために発電所が建設された。
そのため湖岸が削られ水位が変動し、湖水が汚れた。
この時に玉川の水を引き込んだため、
酸性度の強い河川水が注ぎ込まれた。
玉川温泉の源泉は、水質(pH1.2、摂氏98℃、約9000㍑/分)
という強烈なもので、この水がどくどくと
玉川に流れ込んできたから、たまらない。
湖水の環境は激変した。
魚は普通、pH4で死滅する。
恐山の麓の恐山湖でもpH3.5という
(日経新聞2/16/2004「ウグイ生息の謎」)。
クニマスは、田沢湖独自の自然環境があって
初めて生存出来たが、環境の激変下、
世界でも田沢湖だけに見られたクニマスは姿を消したという。
産卵は通年性で、湖底の砂れきで産卵した。
体長20~25cm。大きいもので30cmくらい。
体色は成魚になるにつれて、
著しく黒くなった。
千葉さんは、「私が15才の頃までは、
クニマスがいました」と言った。
白身で美味しく、米一升で一匹という値段のついた魚で、
病人か産後の婦人、正月などめでたい時にしか
口には入らない貴重な魚だったらしい。
美味しい魚であるだけに、
誰でもクニマスを取れるわけではなかった。
戦前、漁業権というのがあり、
クニマス漁組合員は65軒にのぼった。
この昔話のサクゼム(作左衛門)は、
漁業権を持っていたことになる。
田沢湖町HPによると、クニマス漁の体験者、
三浦久兵衛さん(大正10年<1921年>生まれ)以外には、
漁体験者で生存している人は一人という。
戦後、60年、「これが、クニマスだ」とはっきり言える人は、
たった2人になったのである。
田沢湖町では、数年前に
“もし見つければ、一匹で五百万円の懸賞金を出す”
と「クニマスWANTED」を募集したが、
結局、見つけた釣り師は一人もいなかった。
本当に地球上に一匹もいないのだろうか?
三浦氏は「昭和10年<1935年>に、
授精卵10万粒ずつが、本栖湖と西湖に届けられた」
という記録を辿って、
昭和63年<1988年>以降、
何回か出かけて、網打ちして探したが、
無駄であった。
一度、絶滅すると、どんなに探しても見つからないことは、
クニマスにしろ日本狼にしろ、
絶滅種の辿る運命であろうか。
標本でしか会うことが出来ないクニマスであり、日本狼である。
標本が完全ならばまだいい。
クニマスは、僅かな標本しか現存せず、
詳細な研究さえ出来ないと聞く。
人間臭い環境要因が、絶滅種へとクニマスを導いたこと、
生物の多様性を損ねていること・・・
生きているクニマスは、
もはやどこにも存在しないのだろうか。