モノ言う首
昔々、あったべさ。
昔あるとこに、エデ(おとう)とアッパ(おかあ)が住んでいた。
おかあのハラ、大きくなって、梨が食べたい、食べたいとダダをこねた。
(原文:エデ(父)とアッパ(母)と居てあったけど。
アッパ、腹、大きくなって、長梨、食[く]て食[く]てってゴボウ、掘ったと)
(“ゴボウ掘る”とか、“山芋掘る”は独自の表現ですが、
面倒なことや、嫌なことになるという雰囲気を表現しています)
梨のなっているのは、どこか知らないけれど、
焼き飯しょって、刀と弓を持って出かけて行った。
(原文:長梨なってるとこ、どこだか分かんねえども、焼き飯しょって、
ながさや弓持って、出かけて行ったと)
(鹿角方言には、柔らかくて暖かな魅力がありますが、
次からは話を理解することを眼目にして、会話のみ方言にします)
ズ~ッと行くと寺があって、和尚さんが出て来られた。
和尚「おとうよ、おとうよ、どこへ行くか?(エデ、エデ、どこサ行ぐ?)」
おとう「長梨、取りに行ぐ」
和尚「オレ、道、教える。
ここず~っと行けばシャ~、滝、ある。
滝ア、3つある。
“(滝が)行きはトントン、行きはトントン”って、
言ったば行けばいい。
“行ぐなトントン、行ぐなトントン”って言ったば、行ぐなよ」
(シャ~は、東成瀬村、越後羽後でも耳にしたが、松江ではヒ~を語尾として同じように使っています。語尾一つで語りに勢いがつきます)
おとうは、教えられたようにズ~ッと行った。
向こうに滝があった。滝は3つあった。
初めの滝は、
“行きはトントン、行きはトントン”
と教えたので、
ズ~ッとズ~ッと歩いて行った。
いい塩梅に、2つめの滝も3つめのも、
“行きはトントン、行きはトントン”
と教えたので、ズ~ッとズ~ッと進んで行った。
梨の木があった。
実がいっぱい成っていた。
おとうは“この木だな”と思って、木に登るや一生懸命もぎはじめた。
しばらくすると、何だもんだか、大きな化物が
“ウオウ、ウオウ、ウオウ”
と、やってきた。
(このウナリ声、耳では、ウオウ、ウオウの化物は、
“どんな面してるんだか?”と、思うほど迫力あるうなり声、がなり声でしたね)
梨をもいで、下に落とすとペロッと食う。
いくらもいで下に降ろしてもデラッと食ってしまう。
おとうはハラを立てて、化物のまなぐ[眼]を狙って弓で射た。
化物は血を流しながら、ウンウンうなって、
どこかに逃げて行った。
おとうは梨をもいで木から降りてきたが、心配になった。
次はおれが危ない・・・
血の跡を追って行けば化物の居場所が分かるだろう。
跡を辿ると、化物は大きな洞穴で寝ていた。
おとうは、刀で退治した。
それから、急いで家に戻って来た。
「アッパ、今来た(いま帰った)。
アッパア、今、来たア(ただいま、今、戻ったぞ)」
と、呼びかけても返事がない。
・・・どうしたのだろう。おかあの奴、ハラを立てて(ごしゃげて)、
返事をしないのか?
「ごしゃげば、オレ、出て行く~ウ。ごしゃげば、オレ、出て行く~ウ」
すると、長持ちの中からおかあの声がした。
「エデ、エデ。オレも行く、オレも行く」
と、泣き声がする。
びっくりして長持ちの蓋を開けると、おかあは誰に殺されたんだか、
首っ玉だけになって入っていた。
おとうは、仕方なく首ったまを背中にしょって、
外に出た。
・・・暗くなったので、今夜泊まる宿を探さねば。
ようやく宿を見つけて、おとうは言った。
「オレ一人だ。何とか泊めてケレ」
すかさず、背中のアッパの首が言った。
「一人だえ、二人だえ」
どこへ行っても、
「オレ一人だ。泊めてケレ」
と頼むと、すぐに背中から
「一人だえ、二人だえ」
という声がした。
宿屋は、二人だと思って断わられた。
どこに行っても、背中のアッパが口を出して“二人だえ”と
首が口をきいて断わられた。
おとうは、だんだんハラが立って来て、がまん出来なくなった。
アッパの首っ玉を川の中に、
ジャベッと投げてしまったとシャ~。
(提供:石井孝一氏)
(昭和7年<1932年>3月28日生まれ)
伊藤清一氏(大曲市)、黒沢せいこ氏
取材:「秋田魁新報」(取材記事は、4/25掲載)、「米代新聞」他各記者
鹿角市は青森県に近い秋田県東北部にあるが、
明治維新まで長い間、南部藩に属していたため、
一般の秋田方言とは違い
南部藩の方言の影響を受けている。
事実、本篇では、エデ(父)とアッパ(母)という言葉は、
次の「一人だか、二人だか」(横手)では、
オドとアバとなっている。
高橋節夫氏は、
鹿角の民話の掘り起こしに尽力した功労者である。
同氏は、教職に在職中の昭和43年頃(1968年)から
昔話の収集を行い、現在では
「鹿角民話・伝説の会、どっとはらえ」を主宰している。
鹿角には沢山の昔話がある
・・・160位はある、という。
高橋氏は続けて言った。
「昔話の語り手は、様々な語り方をするものですが、
このグル-プは鹿角方言を堅持して、
方言で語ることを守っている」。
つまり、昔話を民俗文化財としての視点で捕らえて、
伝承活動をしている。
たしかに昔話の世界は民俗文化の重要な構成要素である。
「民話を収集するときは、
地元のお年寄りから直接話を聞くのだが」
と高橋氏。
あるとき、ふと思った。
“私に語ってくれている人のようすをみれば、
かなり年寄った人ばかりだ。
この方々が亡くなったら、話す人は誰も居なくなるなあ”
(これはス-ちゃんも痛感していることです。
語って頂いて僅か半年後、
突然倒れて入院された人もありました)
従って、鹿角の爺さん婆さんの語り口は、
最上の教科書であり、
その雰囲気を忠実に伝えて行きたいとも言う。
スーちゃんからのお願い・・・
コロンビアレコ-ドから、戦前に発売された「鹿角の昔話」をお持ちの方、ご一報くださいませんか?
“もはや一枚もありません” と、高橋氏。
純粋の鹿角弁、今のとどうちがうのか耳で聞き分けてみたいのです。
柳田國男編集の雑誌
「旅と伝説」(昭和6年<1932>、4月号)
には、鹿角出身(南鹿角)、内田武志の書いた
鹿角方言による昔話が5話掲載されている。
(猿と蟹、米ぶき粟ぶき、鼠の國、瓜子姫子、歌を歌う猫)
スーちゃんは国会図書館のを読んだが、
方言丸だしだけに
素朴な世界が心にしみ渡るようだった。
現在の鹿角方言が内田武志の時代から、
どの位変化しているかは興味をそそられる。
鹿角方言を温存することを
ポリシーにしている主宰者のもとで、
昔語りにいそしむ「どっとはらえ」会員の語りは、
今や貴重な文化財に違いない。
この話の後段は、
横手市の「一人だか、二人だか」に詳しい。
というより、スーちゃんの山カンでは、
この話はもともと2つあった昔話が合体したため、
後段が短くなったのではないか、
という印象を持っている。
次の横手市の話も、そういったことを念頭にして、
合わせて読んでくださいね。