一人だか、二人だか
昔、昔あるところに仲の良い炭焼きの夫婦がいた。
アバ(おかあ)は、身体が弱くて、
若死してしまった。
若いうちに死んでいとおしいので、
オド(おとっちゃ、おとう)は、墓に投げ入れられなくて、
葬式も出さずに座敷に隠していた。
アバの身体をね。
座敷をちょっと開けてみると、
「おとう?」
と、おかあの声がした。
首がにょきっと出てきたと思うと・・・、
あれれ、おとうの首ったまにピタッとしがみついちゃったよ。
「放してけれ、放してけれ」
なんぼ頼んでもダメ、引っ張ってもダメ、おかあの首は離れない。
おかあの首に風呂敷をかぶせた。
格好悪くて、恥ずかしくて、村の中を歩けないよ!
おとうは、こうしちゃいられない、と、
あれこれ考えた。
そうだ、托鉢の坊様になるべ。
(この妙案、どうなるのでしょうか)
あっちの村、こっちの村を托鉢して歩いた。
次第に、日が暮れかかってきた。
「どこかに泊めて貰わねば
(どごがサ、泊めて貰わねばいげねな)」
泊めてくれる家を探し始めた。
「どうか一晩泊めてください(泊めてたんせ)」
と、ある家の前で頼んだ。
「一人だか? 二人だか?」
と、中から尋ねた。
「一人だ。おれ、一人だ(一人だんべ)」
と、おとうが言うと、
風呂敷の中から、すかさずおかあの首が口をきいた。
「二人だ、二~人」
「一人ならいいけど、二人はダメだ
(一人だばいども、二人なば泊められねえス)」
おとうは泊めてくれる家を探して歩いた。次の家で言った。
「何とか今晩、泊めて貰えないですか?
旅の坊主です。(泊めで貰えねすべが、旅の坊主だんす)」
「一人だか?」
と中から尋ねる声がした。
「ひ、一人です(だんす)」
すると、また首の後ろから、おかあの首が言った。
「二人だ、二~人」
二人は泊められないと、そっけなく断わられた。
おかあの首が二人だ、と、口をきくので、
どこへ行っても断わられた。
このおかあは、餅が大好きな女だった。
おとうは、餅をついている音を辿って、
今晩の宿を探して歩いた。
一夜の宿を頼んだところ、
戸も開けないで、中から同じことを尋ねてきた。
「一人だか? 二人だか?」
「一人だんす」
「二人だ、二人!」
また、首がよけいなことを言った。
おとうは、首に向かって言い聞かせた。
「おまえ、餅を食いたいだろう?
黙っていろ。二人だなんと言えば、誰も泊めてくれないよ
(おみゃ、餅っこ食いてべ? お前[おめ]、黙ってれ。
二人だって言えば、泊めてけでやア)」
宿を探して歩いているうちに、真っ暗になってしまった。
次の家を探して、おとうは戸を叩いた。
「どうか、一晩、泊めてたんせ」
やっぱり、中から聞いてきた。
「一人だか? 二人だか?」
「オ、オレ、一人だんす」
おとうは、顔ひきつらせてもう必死。
さすがに、首は黙っていた。
「一人なら、いいですよ(一人だごったば、いども)」
一人前のお膳が出た。
餅は一人分しかなかった。
誰も居なくなったので、おかあの首を風呂敷から降ろして、
餅を食わせた。
「おまえ、餅を食いたいだろう?
餅を探しに行ってみるから、おとなしくしていろ。
どっさり食わせてやるから
(おめサ、餅っコ、食いてべ? しばらくおとなしくしてれよ。
餅っこ探してじっぱり食しぐからな)」
餅の大好きなおかあには、
おとうと分けあった半人分の餅では不満だった。
家中の者が寝静まった夜中、
おとうは餅を探してうろうろ歩いた。
とうとう見つけたぞ。
それも半切の中に餅がぎっしり、とね。
おかあに向かって
「好きなだけ餅を食っておれ」
と言うや、首を半切の中にごとっと降ろした。
上からバシッと蓋をして、
おとうはワッタワッタ、逃げだした。
夜中に物音がするので、家の人が起きてきた。
「アラアラサ、半切の中サ、猫でも入ったでねえか?」
家の人が蓋を取ると、腰を抜かしそうになった。
おかあの首っ玉が、ヒューっと飛び出てきた。
「オド、待で! オド、待で!」
首は、ドンドン、ドンドン追っかけて来る。
おとうはもう駄目か、と思ったとき、
托鉢の坊主がやってきた。
かくかく、しかじか・・・ どうか助けてたんせ。
おとうが息を弾ませて早口で訴えると、
「人の怨念とは、恐ろしいものだ。
まんず、早くよ、そこの菖蒲[しょうぶ]とよもぎのとこサ、隠れろ」
と、教えてくれた。
おとうがその草むらに飛び込んだとき、おかあの首は
そこでビタッと止まった。
それから菖蒲とよもぎは、
五月の節句には魔除けとして、
屋根の隅に飾られるようになった。
おとうは、家に帰って、おかあの首を懇ろに弔った。
おかあの首はそれからは、決して出なくなった。
(昭和18年<1943>1月30日生まれ)
「一人だか? 二人だか?」
ときかれて、「二人だえ」と答えると、
泊めてくれないという。
不思議に思って、
昔話の背景となる宿屋事情を知りたいと思った。
今のような宿屋が出現し始めたのは、
中世(鎌倉、室町時代)からという。
鎌倉幕府が成立して、
しぜんと京都との往来が密になり、
東海道が上洛の幹線道路になった。
路線には数十の宿場が出来、
宿場ごとに数件の宿屋が営業をはじめた。
しだいに江戸時代、明治時代へと宿屋は発展して行くが、
このへんは本篇の話とは無関係なので、
大変面白いが割愛する。
中世以前の旅行事情はどのようであったのか?
古代の旅は、むろん交通手段がなかったので、
徒歩(自分のアシ)に頼るしかなかった。
お金で道中の食糧や身の回り用品を買うことも出来ない。
和銅元年(708年)にかの有名な
和銅開珎が鋳造されたものの、
貨幣経済に突入することはなかった。
ちょっと想像してください。
自分の食べる食糧を途中の店で調達出来ず、
米、味噌背負って歩く煩わしさ。
また、旅の途中で宿泊できる宿屋がなく、
行き暮れたら困っただろう。
時代小説に出て来るような、寒々とした光景であろうか。
月を仰いで神社仏閣の軒下で仮寝をする。
雨露をしのげても、
吹雪く雪や北風を我慢しなくてはならない。
山賊・盗賊の出没や、餌を探してうろつく野犬や
狼の餌食にもなったはず。
むしろ化物が出てきた方が面白い
・・・少なくともス-ちゃんは、歓迎しますね。
この時代の野宿とは生命の危険にさらされることだった。
この恐ろしい野宿を避けるため、
通り道沿いの民家に頼み込み、
運がよければ泊めて貰うことが出来た。
本篇の背景はどうもこの辺ではないかと思う。
このような環境のもとでは、
庶民(大多数を占める農民)の旅は、日帰りか、
せいぜい一日行程の旅しか出来なかった。
それでも“病気平癒の願いをかなえたい”という人は、
遠い東国から花の都の大和を目指したり、
熊野詣のために行脚の旅に出た。
例えば、切実な願いである失明をなおして、
晴眼になりたい一心で、
熊野神社に詣でた人は多かった。
途中の過酷な旅で、持参した僅かの食糧を食いつくし、
草の根や木ノ実まで食べ飢えを満たしたが、
寺院の門前で力尽きて
餓死寸前で横たわっていた人の多さに驚いた
という貴族の記録がある。
(中御門宗忠著「中右記」1109年)
目が治る前に、わが身が餓死したのでは、
本末転倒であるが、
旅という得難い体験をした、
とご本人は草葉の蔭で満足していたのだろうか。