弘法大師と石芋と

(秋田県 仙北郡美郷町 [旧千畑町] )

昔、昔の話なんしけど。
ある夏も終わりに近い頃、
一人の坊さんが、千畑の大屋敷というところまでやってきた。

ああ、腹がへったな、

と寂しそうに歩いていた。
ふと、道端を見ると
旨そうな芋の子がいっぱい植わっていた。

その人は、持ち主の家に行って頼んだ。

「芋の子が旨そうに見えたし、自分は腹が減って仕方がない。
ちょっと煮て食わせてくれないだろうか?
(おれよ、その芋のこ、旨そうに見えだし、腹も減ってひじねくてな、
何とかその芋の子よ、さっと煮て、食へてきねべか?)

「手数をかけないでもいいから、何とか頼みます
(手数かけねでもよ、何とか頼むんシ~)

と、手を合わせて願った。

しかし、その家の女の人は、
ちょうど晩方で忙しい夕げ時分だったので、
こう言って断わった。

「そうだ、そうだ。この芋の子は、
石芋の子だから食べられないんだよ
(んだ、んだ。この芋のこよ、何と固くてよ、石芋の子だもの、食れねでや)

「そうですか。一つ食べたかったな
(んだが、んだが。一つ食[く]でがったな)

残念そうにそう言って、
とぼとぼとどこへ行くのか肩を落として立ち去った。

語る煙山ひろ子さん
語る煙山ひろ子さん
(撮影:藤井和子)

秋になった。
女の家では、

「あ~あ、芋の子も旨くなったな、
掘ってきてみんなして食ってみるか」

と、芋の子を掘ってきた。
まな板においた芋の子に包丁を入れようとした。

・・・何と固い!
いつもの芋の子と違うな。

別のを掘ってきてやってみたが、

・・・おかしいな、どうしてこんなもの(こんたらもん)に、なったべな。

・・・包丁のかからねえ、石芋の子ばかりだっ。

その次の年も次の年も、
固くて食べられない芋の子が採れた。
いくら植えても、石芋の子だった。

それから何年もして、
あのみすぼらしい、芋の子を食べたいと願った坊主は、
実は、何と弘法大師だった、ということが分かった。

・・・あの時、ちょっと食べさせてあげたら、何事もなかった。

と、後悔したが後の祭りだ。

それからというもの弘法大師の歩いた道筋の畑には、
柔らかな芋の子はどうしても採れなくなった。
みんな、石芋の子になる。
今もなお、固くて食えたものではないので、
もう誰も芋の子を植えなくなってしまった。


とっぴんぱらりのぷう

スーちゃんのコメント



【語り手】 煙山ひろ子さん
(昭和19年9月28日生まれ)
【取材日】 2004年4月25日
(2004年11月1日に千畑町は美郷町と
改称した)
【場 所】 横手市、千畑公民館
【同席者】 千畑民話の会の有志
コーディネーター 黒沢せいこ氏
【方言指導】 安宅仁美さん
(秋田県東京事務所産業観光センター)
【取 材】 藤井和子

弘法大師とは、死後贈られた空海のおくり名。
平安初期の高僧(774~835年)
讃岐(香川県)に生まれ、
幼児から学問をよくし大学に学んだが、
あきたらずに仏門に入る。
当時世界の一流国として日の出の勢いであり、
僧たちの憧れの的となっていた唐の長安(現在の西安)
留学し(804~806年)、生涯の師、
恵果に真言宗の奥義を学ぶ。
33歳で帰国し、真言宗の開祖となって、
下賜された高野山金剛峯寺を本拠地として、
布教につとめた。
真言密教を日本の国家宗教として定着させた。
また、京都に日本初の僧侶と俗人との共学の
綜芸種智院を設立した。
三筆の一人とされる能書家で草書を特によくした。
また詩文・漢文も本場の中国人が
驚嘆するほどの才能を示した。

さて、石芋伝説のこと。
この空海が示した奇跡をどう考えたらよいのか。
空海という宗教的天才の存在と、
空海のなしたという伝説の関係である。

本篇のように芋の子が、石芋になった話のほかにも
弘法杉、弘法灸や、
杖を立てた所から清水が湧きでたという
有名な“弘法清水”伝説がある。
空海自身が全国各地に伝わるこれらの奇跡
・・・同工異曲の感もあるが・・・
を起こしたとしたら、
徒歩で旅する平安時代であるから、
かの松尾芭蕉も裸足で逃げるほどの
驚くべき長い旅程をこなしたことになる。
至るところに出没なさった、といっても過言ではない。
いくら超人だといっても昔、
こんな旅が可能だっただろうか。

ことに空海は、仏門の指導者として
高野山で道場を開いていたし、
著書も「三教指帰」「性霊集」「文教秘府論」等、
多く著している。
実に多忙な身なのである。

福島県の「安達が原の鬼婆」を取材した時、
鬼婆をやっつけるのは、笈[おい]を背中にしょった
紀州熊野からきた旅の修行僧だという説明を聞いた。
当時、高野山由来の高野聖[ひじり]が、
修行や説法のために遊行僧となって
諸国を巡っていたという。
彼ら遊行僧は弘法大師の影武者として、
手足となって、活躍したのではないか。

平安時代に「われは、弘法大師なるぞ」と言って、
祈祷したり病気をなおしたり、雨を呼んだりした場合、
これがにせの弘法大師だったとしても、確かめる方法はない。
遊行僧の方は、尊崇する“弘法大師さま気分”を味わい、
里人から敬われれば、苦労は報われたはず。
素朴な里人は、それが誰であっても、
事績を起こしたことは事実だから、
有難くもったいない思いで満たされただろう。

慈悲を説く高邁[こうまい]な空海が
「芋のこ」を食わせてくれなかった位で、
罰を当てたのがス-ちゃんには、無気味なのである。
遊行僧のなせる業ならば、“そうかもしれん”
と何やら納得しちゃうのである。

室戸岬の若き日の弘法大師像
室戸岬の若き日の弘法大師像