田沢[でんたく]寺の化物(道具のお化け)
昔々、田沢[たざわ]のお寺サ、
なんぼ和尚さん来ても、お化けに食[か]えられるのか、
次の日、居ねくなってしまうけど。
和尚さんになってくれる人、誰も居ねくなってしまって、
村の人達も気味悪くなって、
誰もお寺サ、行かなくなってしまったけど。
(次からは目で追う場合の読み易さを考慮して、会話文の後ろに
方言の注を入れます。)
そうやっていた頃、田沢の村を
俊明[しゅんみょう]という刀の強い、賢い和尚さんがやってきた。
村の人から、お寺の話を聞くと、
「よおし、おれがその化物サ、挑戦してみよう」
と、言った。
村の人達は、お化けに食われるから、と止めたが、
振り切って、どんどん寺に登って行った。
お寺に着くと、やがて夜になった。
俊明は座敷のまん中にでんと座って、
お化けが、今出るか今出るかと待っていた。
・・・なかなかお化けは出てこない。
俊明は、眠たくなって、うとうとと寝ぶかけしていた。
すると、草木も眠る丑満刻[うしみつどき]、
本堂の奥の方で、何かがドタンと降りる音がした。
♪八口[やじぐち]歌って700年、いやっと来い、
やじぐち歌って700年、いやっと来い♪
(笛には8つの口があることから)
と歌いながら、俊明和尚のいる座敷の方にやってくる。
俊明は、入口の襖[ふすま]の陰に隠れ、
錫杖[しゃくじょう]を振り挙げて、待ちかまえていた。
化物が襖をガラッと開けたとたんに、俊明は、
錫杖をバサッと振り降ろした。
ザオー、ドドドドドという音がして、静かになった。
俊明は、
“あ~あ、これで助かったな。”
と、安心して布団を被って寝た。
朝、起きてみると、そのお化けは、
700年もしまっていた笛のお化けだった。
ザオー、と聞こえたのは笛が二つに割れ、
ドドドドドというのは、何人もの和尚を食った血がこぼれた音だった。
俊明は、鐘つき堂に行って、鐘をゴ~ン、ゴ~ンと鳴らした。
村人は、
「和尚さん生きている、生きている」
と、大喜びしてお寺にやってきた。
その日も夜になった。
前の晩にお化けを退治したから、今夜は出て来ないだろうな、
と安心していた。
ところが・・・
草木も眠る丑満刻、本堂の奥の方で、
何かがドタン、ドタンと降りてくる音がした。
ついで、
♪しんちく、わんちく。しんちく、わんちく。♪
というお化けが、
だんだん俊明和尚のいる座敷の方に近づいて来た。
俊明は、入口の襖[ふすま]の陰に隠れて待ちかまえていた。
♪しんちく、わんちく。しんちく、わんちく。♪
と言いながら、襖をガラッと開けた。
その途端、俊明は、錫杖をバサッと、振り降ろした。
すると、ガガガガガ、ドドドドドという音がして、
わんちく、という音は、聞こえなくなった。
ところが、もう一人の化物が、
♪しんちく、わんちく。しんちく、わんちく。♪
とかかってきて、もう少しで食われる所だった。
頑張って錫杖を振り挙げて、バサッと叩きつけた。
ガラガラガラン、ドドドドドという音がして、
あとはシ~ンとした。
俊明は、
“ああ、もうちょっとで食われる所だった。”
と、胸を撫でおろして、
布団を被って寝た。
次の朝、起きてみると、その
“わんちく”と言いながらやってきたのは、
何百年も仕舞っていたので、
とうとうお化けになった碗であった。
しんちく、しんちく、と言ったのは、鈴の化物だった。
ドドドドドという音は、血がこぼれた音だった。
急いで鐘つき堂に行って、鐘をついた。
村人は手を叩いて
「よかった、よかった(えがった、えがった)」
と、喜んだ。
いよいよ3日めの晩になった。
もうお化けは出ないだろうと、布団を敷いてゆっくり寝ていた。
やがて、真夜中になると、
「あや~、苦しいでア苦しいでア、苦しいでア苦しいでア」
と言いながら、
俊明和尚の寝床をぐるぐる、ぐるぐると回るお化けがやってきた。
“おまえ、何がそんなに苦しいのだ
(おめアは、何に苦しして、そうやって回っている。)”
と、聞こうと思ったが、すっと居なくなってしまった。
明日の晩に、またやって来ると思った。
その時にはぎゅっと(ぎじっと)捕まえて、聞いてみようと
待ちかまえていた。
次の日の夜、
「あや~、苦しい苦しい、苦しい苦しい
(苦しでア苦しでア、苦しでア苦しでア)」
と、言いながらぐるぐる、ぐるぐる回る昨日の化物がやってきた。
ぎゅっと捕まえて、
「おまえ、何がそんなに苦しくて、回っているのだ
(おめア、何で苦して、そうやって回っているとこだ。)」
と、話しかけると、化物は、
「おれ、金[かね]の母だ」
と言う。
「庭の松の木の下に、大きな瓶[かめ]が埋まっていて、
そこがおれの家だ
(それで、庭の松の木の下サ、大っけ瓶埋まっていて、そこおら家[え]だ。)」
と、不思議なことを言った。
・・・自分は、金の母親だもの、
大判小判や紙幣のお金を瓶の中にいっぱい産んだ。
自分の居るところが無くなってしまったので、
苦しくて、苦しくて毎晩来るのだ。
お金を取り除いてくれれば、明日からもう出てこない
(金を取ってければ、あど、おれア、出はって来ねア)
次の日、村の人達をみんな集めて、瓶を掘り出した。
瓶に入っていたお金は、座敷にいっぱいになった。
もうお化けは出てこなくなった。
お化けのお金で、立派な寺を建てたがまだ余ったので、
村人に配った。
それで、田沢の村は裕福になった。
これは、道具を大事にしないで、
放置しておいた古い道具の恨み節といえる昔話である。
道具を“もったいない”から取って置いたのではなく、
700年も放ったらかしておいたら、
ついには化物になって出てきた。
裏を返せば、「物は大事にするべし」という話だろうか。
今、はやりの“もったいない”の精神は、
「物は大事にするべし」と、符合しているように思う。
ただし、戦前の内容とは、ちょっと違う。
戦前のは、生活に根ざした精神・・・
物の無い時代なので、物を大切にしなくては
生活が成り立たなかったので、
“もったいない”は、庶民の質素な生活には不可欠であった。
今回の“もったいない”は、ものの溢れる日常生活の中で、
過去のリメーク版であり、
生活ファッションの印象がある。
江戸の昔から質素、倹約は、美徳であった。
ものを大事に使う、道具はこまめに手入れして
長く使えるように配慮するなど、
誰にも共通した、親や社会一般のしつけだった。
第二次世界大戦を境に、
大量生産・大量消費の時代に突入して、
質素・倹約の価値観があっという間に、
どんどん捨てることがよいこと、になった。
大量生産した場合、消費は美徳の精神で突き進まなくては、
世の中は回って行かない。
いろんなものを買い消費すること、
そんな生活スタイルを支える経済力を持つこと、
美徳に対する価値観が転換した。
慎ましい響きをもつ“もったいない”のことばは、
貧乏臭いといった風潮になった。
そこに導入されたのが、リメーク版“もったいない”の文言である。
今の世の中、“もったいない”を実行するには、
ちょっと勇気のいった例を一つ。
スーちゃんは、姪[めい]のサトちゃんを連れて、
行きつけのイタリア料理店にはいったと思し召せ。
彼女が、3歳位の時であった。
イタリア料理は全般に軽いので、何となくすっすっとお腹に入る。
コースのピザのあたりでは、もう食べきれなくなってしまった。
スーちゃんは、ウエイターを呼んで言った。
いつもの常套句を使ってね。
「すみませんが、
うちのワン公にやるので、残ったのを包んでくださいな」
ウエイター氏は、うやうやしく「はい」と、答えた。
その時だった。サトちゃんが、
「おばちゃん、うちにイヌはいないよ!」
と言ったのである。
彼女は、三毛ネコのミー子を文字どおり猫かわいがりしていた。
膝に抱き上げて、背中をなでなでしながら、
うっとりしていたりするもん。 犬のことは可愛くも何とも無いのである。
・・・スーちゃんが、えへん、と咳払いすると、
ウエイターは、澄ました顔をして下膳した。
東京の料理店のサービスは、このあたり一流ですね!
皆さん、子どもを連れて行くときには、
こんなリスクも突発するんです。
スーちゃんは、300ドル(約3万円)あれば、
100人の子どもが1カ月間を生き延びることが出来る、
アフリカの飢餓国を知っている。
主食のとうもろこしが天候不順で採れず、
やせ細った子どもが飢餓状態と報道された。
この国は、「世界のお茶の会」で世話になり、
(かつて大使公邸でお茶の会を開かせて頂いた。)
美味しいコーヒーや紅茶を産出するのを体験した。
そんなご縁があったことから、
この国の「お茶の会」に出席した人達に募金を募った。
大使にお会いして募金を手渡し、実情を伺ったときに、
生存に必要な食料にも事欠く国と、
どんどん物を捨てる日本と、
深刻な格差を実感せざるを得なかった。
もったいない、とか、物を大事にする精神は
決して、時代遅れではない。
それを実行することが、豊かなこの国でどれほど難しいかを、
ときどき痛感するのである。