森吉山の鬼
●阿仁町のこと。
旧阿仁町の中心、阿仁合[あにあい]は、角館から車で約1時間の所にあった。
熟れた稲穂をはさに干した山あいの田圃道や、民家が散在する農村地帯を通過した。もう何回取材で秋田県を訪ずれたか忘れるほどであるが、いつも全国有数の穀倉地帯であることを実感する。
阿仁町は、森吉、合川、鷹の巣らと合併して、北秋田市の一部になったものである(平成7年3月)。北秋田市の人口は、40087人(平成18年10月現在)。阿仁町は、町の96%を山林野が占めるような山国である。
阿仁は、またぎの里として・・・またぎとは、山の掟を厳しい作法の下で守りながら、深い森に分けいって、集団で熊など野生の獲物を得た狩人のことであるが・・・全国的に有名である。また、産銅日本一を誇った日本三大鉱山を誇った町でもあった。延慶2年(1309年)に金山として発見され、後に銅山となったが昭和53年(1978年)に閉山した。
ことに、異人舘(平成2年3月、国重要文化財指定)は、鉱山技師として訪れたドイツ人アドルフ・メッケル(1879年来日)が居住用に建てたもので、ルネッサンス風洋館として著名。
森吉山(もりよしざん、標高1454m、秋田県立自然公園)は、県中央部にそびえ阿仁町と森吉町の境にある約20km四方の山域をいう。
盾状の複式火山で、標高1000m以上のいくつかの外輪山に囲まれた独立峰である。
皆様、どういう所か、イメージ湧きます?
昔、森吉山に鬼が棲んでいてあったと。
その鬼は、気性が悪くて、里サ出てくれば、
人を取って食ったり、死人の白い着物や、頭サ被せた白頭巾、
それをはぎ取ってきて、山サ木の枝サ掛けてあったと。
今でも森吉山の南東の方向に、
白頭巾沢という地名、残っていると。
(次からは全国区の読者の理解のために、
会話のみ方言の注を入れます。)
里に降りて来て悪いことをする鬼に、村人は困り果てていた。
何とかして、鬼を退治したいと相談したが、
なかなかよい案は出なかった。
村の人達が話している所に、
全国を回っている権現様(神仏の化身)がやって来た。
「ああ、いいところにやってきてくれたな
(は~、いいとこサ、やって来てきた。)」
何とかしてあの荒くれ者の鬼を退治して欲しい、と頼んだ。
権現さまは、すぐ鬼の所に行ってかけあった。
「村の人達は、おまえのお陰で、大変心配している。
そうした悪いことをせずに、森吉山から出て行け
(村の人達は、おめえのお陰で、大した心配している。
そうした悪いことしねえで、森吉山から去って行け!)」
鬼は承知しなかった。
(多分、鼻先でせせら笑ったでしょう。語りでは、
“それで権現さまは、鬼に対して話っこしたと。”となっています。)
権現さま「あのなあ、森吉山の頂上サ、
川からおっきい石を運んで、
3つ重ねて塔を作れ。
一番ドリが鳴く前だぞ」
ついで、
「それが出来たら森吉山にいてもいいが、
出来なければ出て行くんだよ、いいか
(それが、出来ればおめとこ森吉山に置くけども、
それ出来ねば、おめ出てかねばなんねえよ、いいか。)」
と申し渡した。
鬼は人を取って食うほどの荒くれ者で、力自慢。
二つ返事で承知した。
一方権現さまは、
こそっと物真似師(物真似のじょうずな男)に頼んだ。
「鬼が、三つめの石に手を掛けて捕まえる前に、
鶏の鳴く真似をしてくれ
(鬼ア、三つめの石サ手かけて、三つめの石がつかめられねうちに、
おめえ、鶏の鳴く真似してケレ。)」
鬼は、そんなことを何も知らずに、
荒瀬川にある大きな石を夜中に一生懸命運んだ。
(戸嶋さん「今でも荒瀬川には、おっき石がゴロン、ゴロンあるんですよ」)
さあ、いよいよ三つめの石に手を掛けようとした時に、
一番ドリが、
“コウッ、コウコウ”
と鳴いた。
鬼は、約束を思い出して、ぐずぐずしていた。
(ここの“ぐずぐず”の表現は、
鬼の気持ちを考えると、生ま生ましい言葉ですね。)
すぐ権現さまがやってきて、
「約束だよ」と言って、鬼を追い払った。
鬼は逃げて行く途中に、一ノ腰まで来たとき、
山ウドの皮に滑って転んだ。
その時、目を突いて、片目になってしまった。
権現さまは、可哀相に思って、鬼を一ノ腰に止まることを許した。
今でも、森吉山に登る者は、
ウドを一週間食べないのは、そのためである。
秋田の三吉[ミヨシ]は、もと、森吉山の巨人であって、
後に村に出て、百姓になったとも聞いている。
そういう話であります。
戸嶋氏は、阿仁生まれの阿仁育ち、
83歳とは思えないほど、はっきりした声で朗々と語った。
阿仁町近辺の小学校教職の職歴からか、
聞き手を意識した明瞭な語り口だ。
この話は、戸嶋氏によると、
「かつて、阿仁町の工藤由四郎さん(役場職員)は、
阿仁のことをこれからの人達に伝えようとして、
阿仁郷土史を編纂した。
氏は、歩き回って昔話を収集した。
その時に、本編を荒瀬川に住む年寄りの婆さまから聞いた」
それを戸嶋氏が語ったものだ。
スーちゃんらが阿仁を訪れた10月10日頃は、
森吉山が全山規模で紅葉して、
秋の盛りを迎える美しい季節だという。
5月頃から、「昔っこ」取材をアレンジして戴いた伴夫人の案内で、
麓から季節運行のゴンドラに収まり、山頂を目指した。
6人乗りのゴンドラは、ゆっくりゆっくり山腹を目指す。
歩けば1時間半かかる山頂までの道のりは、
約14分で山頂駅舎に到着する。
このロープウエイは、バブルさなか1985年に、
(株)コクドが建設した森吉山への貴重な足である。
しかしね、(株)コクドも、
今や他の事業主体を探しているんです。
ゴンドラの窓から見える山腹は、
ブナ林が広がり、ブナ、楓、ナラが醸す黄色、
赤、朱色がないまぜになった錦のじゅうたんであった。
まぶしいほど美しい、一瞬輝く東北の秋。
冬は冬で、標高1000m以上のアオモリトドマツを包む
樹氷の群れが美しい、という。
山頂からの眺望は、山国に立っていることを実感した。
はるか彼方に長々と寝そべっている奥羽山脈は、
もやった霞の底にとけ込み、
鳥海山、田沢湖、岩手山、白神山地、男鹿半島も
見えるはずというが、もやのベールに包まれていたのだろうか。
それでも手前には、次第に濃くなって、
5つ6つも重なりあった山々がくっきりと横たわっていた。
はるか彼方の山に囲まれて、そこだけ浮き上がったように、
きらきら光っているのが阿仁の町だそうだ。
海はどこにも見えなかった。
・・・阿仁は山国、有名な「またぎの里」なのだ。
昔話を尋ねて、日本のあちこちを歩くうちに、
観光地の実態を見てきた。
観光地化された結果、観光ビジネスに呑込まれ、
ついには消費された観光地や、疲弊して
末期的ステージになった観光地もあった。
ある観光地として有名な南国の離島の住民から、
“今はまだまだ人が来ているが、
観光はもう終わりかかっている。”
と、スーが感じた通りを口にした人もいた。
これらを念頭におくと、
森吉山には手つかずの自然美が残っている。
時間の関係で行けなかったが、森吉山麓エリアには、
森吉神社や石森など紅葉の名所や、安の滝(日本の滝百選)、
小又峡、牧場、太平湖(人造湖)など数多の渓谷や渓流、
名漠等の観光資源に恵まれている。