河童のくれた薬
昔むかし、今から300年か、もっと昔のことだった。
合川町の根田[こんだ]の、多兵衛[たへえ]という屋号を持つ家に
代々、伝わっているこんな話こ、あったんだと。
(方言は強くないのですが、次からは全国区の読者の理解のために、会話のみ方言の注を入れます。)
多兵衛は大きな農家で、
若衆(わかぜ、農作業をする男衆)が何人もいた。
その日は、夏の暑い日だった。
若衆達は馬を連れて、川の側で草を刈っていた。
その側には深い沼があって、沼のところに馬をつないで、
若衆達は一心に草を刈っていた。
・・・と、一頭の馬が何に驚いたのか、
バシャバシャと水音も激しく立ち上がり、
“ヒヒーン”といなないた。
繋いでいたたずなを振り切って、多兵衛の家を目がけて、
風のように駆けて行った。
若衆達は、
「不思議だ! どうしたんだべ」
と、息を切らせて後を追った。
馬は、馬小屋に入っても暴れ回り、
「どうしたことだろう。悪いものでも食ったんだろうか?
(どうしたんだべ。悪いものでも食ったべか?)」
馬の様子が、おかしいので、
若衆達は馬小屋に入って、調べようとした。
「あれっ、あれは何だ!」
身の丈2尺(60cm)くらいの、おかしなものが、
馬の尻尾に取り付いていた。
人の顔に似ているが人ではなく、ケダモノでもない。
髪は黒く、頭のまん中はへこんでいた。
水鳥のように、足には水かきが付いていた。
一見して蛙に似ていた。
(大事な所なので、原文も出しますね。)
・・・面っこだば、やや人サ似たりといえども人にあらず、蛙に似たり。
ケダモノでもねかった。
髪は黒くあって、頭の真ん中は、ひっこんでいてな。
足には水掻きが付いていて、水鳥のごとし。一見して、蛙のごとし。
「こいつが、謎の河童だろうか?」
みんなは、口々に言った。
「こら、おまえは、泳いでいる子どもの足を引っ張って、
深みに連れて行く悪い河童だろう?
(こら、おめえは、水泳ぎしているワラシの足、引っ張って、
深けえ所サ連れて行く悪い河童だべ?)」
「大事な馬サ、いたずらするとは、ひどい奴だ」
懲らしめてやる、とばかりに、殺気立って、
棒を手に構えて取り囲んだ。
河童は言った。
「許してください。すみません。
どうしても、ここの親方様にお伝えしたいことがあるので、
会わしてください
(許してケレ、御免してケレ、
どうしてもここの親方サ、伝えることある。
会わしてケレ)」
不思議に思った親方は、たった一人、刀をさして、
馬小屋に入った。
河童は話を始めた。
「おら、近くの沼に住む河童だ。
馬を驚かせ、若衆を騒がせてすみません。
親方に大事な宝物を授けるから、
どうか命だけは、助けてください」
そう言いながら、、一幅の巻物を差し出した。
「この村の人達を水難から守るし、
もう悪いいたずらはしないから」
そういうと、ふっとどこかへ消え去った。
河童の残していった巻物は、さまざまな病気に効く薬の調合法や、
用法、効能が詳しく記されていた。
・・・骨接ぎ薬の作り方、切傷、打ち身、せんき(下腹の痛む病気)、
目まいや立ち眩み、産前産後、血の道などの薬である。
牛馬の病気には、どんなものにもよく効く、と書かれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金田京子さんの語りの元は、金田家に伝わる昔話である。
つまり、大正13年9月になって16代当主の多兵衛さんが、書き写した一綴りの書き物に基づいている。原典は、弘化4年9月(1847年)に、当時の当主、多兵衛さんが書き残した書付けという。
(ご承知のように、旧家では、成年に達すると、名前を子孫に継承して行くから、長子は、代々金田多兵衛さんなのである。)
北秋田市は4つの町が合併したが(平成7年3月)、
その一角をなすのが合川町だ。
阿仁町から車で約40分。
刈り終えた稲田の一本道を進む。
10月の田んぼに、農夫の影は、チラとも見えない。
相棒の黒沢さんの運転は確かで、地理にも詳しい。
二回ほど道を尋ねたが、特に迷うことは無かった。
このあたりの姓は、2つあるというが、
金田さんの近隣は、金田姓ばかりだった。
金田本家は、これから伺う河童の金田家で、
村に分家が出来て、だんだんと、金田姓が広がったらしい。
まあ、それほどの旧家なんですね。
この家の座敷に上がると、何ともいえず気持ちが落ち着く。
ゆったりした休息感に包まれる。
そこはかとなく、家が歓迎してくれているような・・・
そんなことを、じわっと感じた。
すぐに帰りたくなる、そんな家もあるんですよ。
かつて金田家は、長男の一子相伝により、
河童伝来の調合法で薬を作り、県の許可を得て、
秋田県北部を中心に、
何人もの行商人が薬を売り歩いた時代があった。
この家では、河童と深い縁があったわけだ。
明治20年には、「多くの病人を救った」という
秋田県からの感謝状、表彰状が壁にかかっている。
京子さんが、隣村からお嫁に来たのが昭和27年。
薬は昭和28~29年頃まで、調合していた。
世の中が代わり、化学薬品の時代になったので、
現在では製法は秘密扱いではなくなり、
もはや製造や販売はしていない。
京子さん宅には、ときどき先生に連れられて、
小学生がやってくる。
子ども達は、河童には、興味しんしんで、こんなことを聞く。
「河童ってどんな色をしてたんですか? 緑色ですか?」
「先祖からは、茶色でやや黒っぱい、と聞いているよ」
河童のくれた薬の話をしてやり、この村では、
水難(京子さん「水の事故だすな」)で亡くなった人はいないこと、
泳ぎに行くときには川にきゅうりを持って行くこと、
などと話すという。
きゅうりは、河童の大好物。
24歳になった孫娘は、
子どもの頃から河童の話を聞いて育ったので、
「婆ちゃん、畑にきゅうりの初成りが出たよ」
と、わざわざ教えてくれる。
京子さんは、この家伝来の、河童の掛軸を掛けて、
「初成りのきゅうりコ、召し上がって下さい」
と拝んで、初成りを供えるという。
正月には、掛軸を床の間に掛けて、
酒や飾り餅を供えておまつりをする。舅さんは
「この家で、河童を粗末にすると駄目だよ」
と言っていたし、数年前に病死したご亭主は、
「この家は、病気の人や身体の弱った人を昔から治してきた。
多くの人を助けて来たことに、誇りを持っている」
とフト漏らしたことがあった。
厳しくて余りしゃべる人ではなかったのに、
「河童に対する感謝の気持ちからでしょうか?」
と京子さん。
今まで、あまたの河童の昔話を聞いたが、
書付けのある河童話は初体験であった。
修現道の山伏が薬の調合法を教えた・・・とか、
遊行僧がやってきて・・・とか、
この場合、そういう訳知り風の雑音をぴしゃりと締め出す、
圧倒的な迫力がある。
化学薬品の無い時代に多くの病人を救ったこと、
薬が効いたからこそビジネスになっていたこと、
これは紛れもない事実であった。
実際にこの世にいない生き物を“妖怪”と呼んでいるが、
実在したのなら、河童は妖怪ではない。
タイムマシーンでもないかぎり、
厩[うまや]に河童が来たかどうかは、分からない。
書付けだけが、河童が来たという証拠である。
金田家の河童に、もう一度、姿を現して欲しいのである。