地蔵浄土(裸にされた欲張り爺さん)
昔あったどな。
ある村サ、正直者で働き者の爺っちゃと、
婆[ばば]が、居てあったと。
家の周りの田畑で、仕事したり、また山になるもの
取りに行ったりして、二人で仲良く暮らしてあったと。
(方言は殆どない、分かりやすい語りでしたが、
以下の会話では必要に応じて注を入れます。)
ある日のこと、爺っちゃは、焼き飯持って、
山に薪を取りに行った。
昼飯時になったな、と思って、
地蔵さまのそばで焼き飯を食うことにした。
自分ばかり食うのは良くないな、と、人の好い爺っちゃは思い、
周りの地蔵さまにも少しずつお供えをした。
何と、焼き飯貰った地蔵さまが爺っちゃに話しかけてきた。
「爺、爺。
黙っておれの言うことを聞け。
飯食ったら、おれの後ろサ来て、寝てろ」
・・・そうするとな、キツネがたがやって来て、
バクチを始めるだろう。
頃合を見て、鳥っこのなく真似をすれば、
朝が来た、と、キツネがたは、
銭っこを置いて逃げてってしまうからな。
爺は、晩になるのを寝ながら待っていた。
晩がたになった。
あたりが暗くなると、ワイワイワイワイ、ガヤガヤガヤガヤ、
あっちからもこっちからも、キツネがいっぱい集まってきた。
地蔵さまの前で丸く輪になって座ると、
めいめいが自分の銭を出して、バクチを始めた。
爺は、“不思議なこともあるもんだな!”と思いながら、
息を殺して見ていた。
もういいかな、と思って、
“コケコッコ~”
と、一発、鳴いてみた。
キツネがたは、慌てふためいて逃げだした。
「朝まなった、それ、急いで逃げるどオ~」
爺は、地面の銭をかき集めて袋に背負って、
大急ぎで婆のところに帰った。
「ばば、ばば。
今日はこんな不思議なことがあったよ
(今日、こういう不思議あったれば・・・)」
と、一部始終を聞かせた。
その話を聞いたのが、隣の慾張り爺だった。
“ようし、そんなことならオレも一つ、
同じようにして、大金を儲けるぞ
(ようし、そいんだらおれも一つ、
そんたんでにして、大金儲けてやれ。)”
次の朝、隣の爺も同じように、
焼き飯しょって、山に出かけた。
昼飯時になったな、と思って、
地蔵さまのそばで焼き飯を食うことにした。
隣の爺は慾張りだもの、
地蔵さまには一つも供えないで、全部ひとりで食ってしまった。
やがて、晩がたになって、あたりが暗くなった。
昨日のように、あっちからもこっちからも、
ワイワイワイワイ、ガヤガヤガヤガヤ、
キツネがたが、いっぱい集まってきた。
地蔵さまの前で輪になって、あぐらをかいて座ると、
めいめいが銭をジャラジャラ出して、バクチを打ち始めた。
慾たかりの爺は、
“ウフフ、おれもこの銭で、金持ちになれるどオ~。”
胸わくわくさせて、目をギラギラ光らせて待っていた。
気持ちばかり先に立って、もう我慢が出来なくなった。
キツネがたがバクチを始めると、もう少し待てばいいのに、
“コケコッコオ~”
と、鳴いてしまった。
キツネがたは爺を見つけると、サッと取り囲んだ。
「昨日の一番鶏の爺[じじい]だな、よく来たもんだ」
みんなで寄ってたかって、
爺の着物を剥いで、丸裸にした。
キツネがたは、爺の身体をどこそこいわずに、
爪を立てて引っかいた。
爺は血塗れになって、おいおい泣きながら、
やっとの思いで痛む身体を引きずって、家にたどり着いた。
まだかまだかと、爺を待っていた婆は、
帰って来る爺を遠くに見て、
“おらえの爺、
金持ちになって、赤いべべ来て戻って来るウ~!”
と、叫んだ。
爺の着物は、火にくべて、
はやばやと燃やしてしまったのだった。
裸にされた慾張り爺っちゃは、
そのあと、どして暮らしたべなあ。
語り手の伴さんは、
この話を能代市の小学生時代(4、5年生)に、
教頭先生から何回か聞いて印象に残り、
今なお覚えているという。
秋田県内の民話の収集をライフワークとして、
数え切れないほど民話語りの現場を踏んできた、
同行の黒沢せいこさんは、
「伴さんの声は、語りにぴったりです!」
と、太鼓判を押した。
低めのアルトの落ち着いた語り口は、
聞き手にしっとりした安心感を与える。
大人の淑女の語りだ。
本篇の人真似は、慾たかりの隣の爺さんが、
あられもなく人真似をして、
あわよくば宝を自分も得たいと思って、仕損じた話である。
この話の言わんとするところは、
「慾の一心で、ヤミクモに人真似をすれば、
こういうひどい目に遭うこともあるんだよ」
という戒めの話である。
ぶざまな爺さんの結末は笑い話として、
多分村じゅうの茶飲み話になっただろう。
これはこれとして、
人真似の内容を少し他の角度から考えてみた。
考えてみれば、幼児が大人になって行く道程では、
人真似なくしてはその社会に生きて行けない事実がある。
いわゆる社会化(socialization)というヤツだ。
人のフリを「見て真似る」という幼児の行為を
チンパンジーとの比較において、観察して、
人間のありようの手がかりを得ようと研究しているのが、
明和政子さん(1970年生まれ、若手サル学者で
発達心理学の研究者)。
1980年の中頃、DNA分析によって、
最も人類に近い生き物は、
チンパンジーだということが分かっている。
人間とチンパンジーの赤ん坊を比較することによって
得た結論は、はなはだ興味深い。
1.人の子は、まだ言葉が分からない生後18ケ月めから、
相手(実験を行う研究者)の身体の動きから、
その人の意図や目的という“心の枠組み”を理解できる。
2.これに対して、チンパンジーの興味の対象は
つねに(実験者のもつ道具の動き)であり、
相手の心の動きは、全く関心を示さない。
人の子が、他人の身体の動きを理解できることは、
内面よりも道具に興味を持つチンパンジーとの大きな差である。
(明和政子著「なぜ「まね」をするのか」(霊長類から
人類を読み解く)、 河出書房新社刊、2004年)
人の子は、他人の心を読みながら人間らしくなってゆき、
人真似をしながら帰属する社会の構成員になってゆく。
スーは、このキーワードの「18ケ月」にビビッと感じましたね。
明和氏の他に、もう一人、
このキーワードにただならぬ関心を寄せた人がいたからだ。
天才数学者とされる岡潔氏(1901~1978没、
奈良女子大名誉教授、 1960年文化勲章受賞者)である。
数学者の岡氏は、丹念に幼児を観察した結果、
1.順序数は、生後8ケ月頃体得するが、
自然数1を体得するのは、
順序数が分かった後、8カ月もかかる。
生後16カ月になって、ようやく自然数1がわかる。
(氏は、「順序数と自然数の体得は、同じようなものだろうと
考えていたが、 順序数が分かってから自然数に進むことを
明快に述べている。)
2.この年頃の幼児は、面白いことをする。
何ごとをするにも一時に一つしかしない。
例えば、菓子を手に持っているとき、もう一つやろうとすると、
前に持っていたのを捨てて新しいのを掴む。
観察していたとき、その子はちょうど口に入れた焼き豚を
だいぶん噛んでいたが、そのときソーセージをやると、
焼き豚をプーッと吐き出して、ソーセージを口に入れた。
また、美容体操の真似らしく、TVの前で、
「おっちんして、足を投げ出して、身体を前に曲げてみたり、
手を上に上げてみたり・・・」した。
この16カ月頃には、種々雑多の全身運動を
やって、全身で自然数1を確認しているようだ
(「風蘭」、講談社現代新書5、1964年)
岡氏は、人間が“自然数1を体得する”のは、
このように難しいことらしい、
自然数1が体得できたことは、自分自身が分かることであり、
大脳前頭葉に自分の情緒のオリジンが在ることを
確認することである、と述べている。
お子さんを持っている読者諸君、
愛児をよ~く観察して、ぜひ投書をお願いします。
言葉がしゃべれない2歳未満の幼児が、
相手の心のフレームワークを
敏感に察することが出来るのは驚くべき事だが、
岡氏のいうところの、自然数1を体得するのが16カ月
→この頃、自分が分かる
→情緒の所在を大脳前頭葉に確認する
そういう時期と、明和説の時期が一致しているのは、
興味深いことだ。
スーが言いたいのは、次のことである。
●人の子においては、自分が判る時期は、
16ヶ月~18ヶ月である。
●自己が確立すると、他人の存在が理解できて、
人まねによる社会化が始まる。
この時期を経て、人は帰属する社会の一員に育って行く。
●人まね、の作用は、本文の民話のように
「主体性がなく創造性もない」隣の爺さんのような、
悪い例ばかりではなく、
人間として育つ上で、大切な働きもある。
ここでは、そういう観点から、「人まね」を考えてみた。