遊女キツネ

(山形県新庄市)

昔、あったけど。
昔あっとこサ、爺さまと婆さま居たっけど。
爺さま、炭焼きなどして暮らして居たっけど。
んだサゲて、あばら屋でよ、
家の下サ、キツネ達、巣食っていたけど。
爺さま、しこたま生き物好きな人でよ、
毎日、山から帰って来ると、その中、覗き込んで、
「おめ~等、まだ居だか?」って、
「まだ生きでろよ、生きでろよ」 って言いながら、
残り物なのちょこ、ちょこと、ホレ、入れたりして養っていたなだけど。

(この昔話の背景が分かるような新庄の方言には、
ひなびた雰囲気が漂いますが、
全国区の読者のために、次からは会話のみ方言を生かします)

食べ物が何も無くなったときのために用意しておくしみ餅、
冬に凍らせて作っておくしみ餅を、
婆さまはいつも大事に取っておいた。
その年は不作だった。

爺さまはキツネっこに、一つやり二つやりして、
いつの間にか半分も無くなってしまった。
ついにある時、
婆さまはキツネっこがしみ餅を食べているのを見つけた。

「何してる。
春になって食べものが無くなった時に食べようと思って、
大事に取っておいたしみ餅を、
こんなキツネっこなんかに、食わせなくたっていいんだよ!
(何だって何だって!
おれ、春なって食い物、無くなった時食[か]せっがと思って大事に取っておいたしみ餅、こだなキツネっこだサ、食せなくたっていいべちゃ!)

さっとアタマに血が登った婆さまは、ぶんぶん怒り立てた。
それを聞いたキツネは、
子ギツネを連れてその日の内に、山に帰ってしまった。

山から戻った爺さまは、
キツネっこが一匹も居なくなっているので、
驚いて婆さまに尋ねた。

爺さま「おまえ、何か気に掛かるようなこと、言わなかったか?」

婆さま「大事に取っておいたしみ餅を食っているので、
キツネなんかに食わせなくたっていいんだ、と言ったよ
(おれが、大事にしてたしみ餅食ったハゲて、キツネださなの、食[か]せなくたっていいべ、って、おれ言ったばった)

爺さま「おまえ、何でそんなことを言ったんだ。
3年3カ月も飼っていたキツネっこ、
もっと大事にしないといかんだろう?
(何だって、オメ~、そげなこと言うのだ。3年3カ月も飼ってたキツネ、もっと大事にさんなねべな)

と、怒った。

すると、そのときね。

「爺さま、婆さま。
まんず、長らくお世話なってはア、不調法しやしたや」

と言いながら、美しい娘が入ってきた。

婆さま「あらら、爺さま、この人、誰れだろう?(誰れだちゃわ)

爺さま「おれも、知らねえな」

二人は、いったいどこのどなたでしょうか、と聞いてみた。

「おら、爺さま婆さまから、食い物、いつも貰ってたキツネっこですウ」

「長らくお世話かけてはア、
ご恩返ししよう(すっぺ)、と思って来やした」

と、しおらしく挨拶した。
ついで娘は、
とんでもないことを言い始めた。

「私はおかねも宝物も無いの。
だけど、おいらんにはなれる。おいらんになってみたいのよ。
お爺さん、吉原へ行って私を売ってくれない?
そしたらおかねをいっぱい貰えるからね
(ほんでもオレ、金も宝物もねくてよ、ほんでオレ、おいらんサ、なるサゲて、
爺さま、吉原サ行って、おれとこ、売ってケロ。
ほうすっといっぺ金、貰えっサゲて)

爺さまは慌てて、そんなこと出来ないよ、
と打ち消したが、
娘は、出来るよ、と言い張った。

(おいらんとは、江戸吉原の遊廓の姉女郎のこと。
一般に上位格の遊女をさす。
【言葉の由来】おいらん付きの見習いで、雑用等をこなす禿[かむろ : 5、6歳~11、2歳までの少女]が、「おいらの姉さん → おいらん」 につづまった言葉とされている)

ついに爺さまは、いつ行くつもりだ?
と、聞いてしまった。

娘は、

「明日行ぎやんすべ。爺さま、朝早ぐ行ってよオ」

と、言った。

二人は、翌日の朝、江戸の浅草で待ち合わせることにした。
爺さまは、握りママしょって、朝早くお江戸の浅草目指して出かけた。

あとから追いかける(ぼっかける)と約束した娘を待って、
爺さまは、浅草観音で待っていた。

・・・キツネっこの化けたおなご人(娘)
いったいどんなきれいな着物を着てやってくるかな。

爺さまは、次から次に素通りする女の人をきょろきょろ見ては、

“この人でないか? あの人でないか?”

と、眺め回した。

時間があっという間に過ぎてゆく。
もうすぐ、日が落ちようとしていた。

・・・おれ、化かされているんでないか?
3年3カ月の恩返しって言うんだけどな。

爺さまは、疑心暗鬼になってつぶやいた。

爺さま、爺さま、と呼びかける声に振り向くと、

ややや・・・

爺さまが今まで見たこともないような、
花のようにきれいな娘が立っていた。

「お待たせして、本当に失礼しました
(まんず、まんず、お待たせしてはア、不調法しやした)

「馴れない化粧をしていたもんで、こんな時間になったんですウ
(おれも、ホレ、馴れねえ化粧っこなのしたもんだハゲてよ、
こげな時間になりやんしたワ)

二人は吉原へ出かけた。
門構えの、ひときわたたずまいの立派な遊閣の前で呼ばわった。

「御免ください (はいと、はいと)

すぐに旦那が顔を出して、玄関に出てきた。

爺さまが、今年は作柄が悪くて、こんな娘ですが・・・と、切り出すと、
皆まで言わない内に、旦那は、娘を一目見て、たまげてしまった。

「美人だ! こ、こ、これア申し分無い」

と、わななきながら言うのである。
爺さまに向かって

「ところで、ホラ、爺さまよ、何ぼで置くやア?
こういった器量のいい娘」

爺さま「この子はおれの宝物だから、そうだな、
5百両いや千両はほしいな
(おれのよオ、宝娘もんだサゲて、
まんず、5百両いや千両は貰わんなねな~)

爺さまは、しこたまふっかけた。あはは。

「ほっか、ほっか。千両か! う~ん」

さすがに旦那もしおれかけたが、
横から娘がにっこりすると、すぐその気になった。

「ほんだら、何年の契約や?」

「5年でどうです?(5年でなじょですべエ)

旦那は、

“うん、いいべ、いいべ”

と、ほくほく顔になった。

すぐに奥から番頭を呼んで、千両箱を持って来させた。

旦那「爺さまよ、書付け書け」

爺さま「おれ、字書けねえ。おれの娘、書く」

キツネの化け娘は、サラサラ、サラッと証文を書いた。

爺さまが、娘をよろしくお願いします、と挨拶して、
出て行こうとしたとき、
キツネっこが爺さまを呼び止めて耳打ちした。

「10日の内に、必ず逃げて帰るから、
油あげ飯をいっぱい炊いててほしいと、
婆さまに言ってくださいな
(おれ、10日の内に、必ず帰るサゲて、
油あげママいっぺ炊いててケロって婆さまサ、言ってでケロな)

遊廓では、

大変な美人が入ってきた、

というので大騒ぎになった。
あっちからもこっちからも、評判を聞きつけて、千客万来。
3日も経たない内に百両、二百両、いや千両、
またたく内に二千両にも届く位、流行った。

何しろこの遊閣は、着物にしろ遊女にしろ、
一流どころを揃えていたのだが、
キツネの娘に比べれば、目も当てられない。
まるで千羽カラスの中に、
鶴が一羽舞い降りてきたように娘は引き立った。

あまりの評判で、便所へ行くにもおつきの男がくっついてきた。

・・・逃げることが出来ない。
どうしたらいいか。

・・・今日は10日目だ、今日逃げねば!
爺さまと婆さまが待っていよう。

娘は逃げようと決心して、用を足しに行った。
3人もついてきた。

今日こそ逃げよう、

と思ったので、便所に入ると、戸をバタンと立てて、
がちゃがちゃ、がちゃがちゃと、穴掘りを始めた。

(昔は便所は外にあって、汲み取り式だったのですね)

語る鈴木とし子さん
語る鈴木とし子さん
本沢所長
方言指導の本沢邦宏氏
(東京山形物産センター所長)

「あねサ、あねサ。まだですか?」

「まだですウ」

また、がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。
しばらく経つと、

「あねさん、まだですかジャ~」

(本沢さんによると、
語尾のジャ~は、強い気持ちをこめる言葉)

「まだですヤ、おれ、
しぇんつ(便所)の長え人でよ」

また、がちゃがちゃ、がちゃがちゃ。
しびれを切らした付き人は、怒鳴った。

「あねさん、まだですかジャー」

返事がないので、便所に押し入ってみた。
あれっ、中はもぬけの殻!
地面には大きな穴が、ぽっかり開いていた。

頭を垂れて、しおしおしながら旦那に報告すると、
旦那は頭から湯気を立ててがんがん怒った。

「必ず自分のうちに戻るはず。すぐ追っかけて見ろ!
証文もあるからな
(きっと、家サ戻ってくるサゲて、すぐ追っかけて行け。証文もあることだし)

若い衆[し]達は、証文片手にやんやん言いながら追手となって、
娘を追いかけた。

(若い衆は、楼閣の雑用一切をこなした。
あんどんの油差し、布団の上げ降ろし等)

娘は実家(?)にドンドと、戻ってきていた。

「ご苦労だった、ご苦労だった」

という爺さまの声を背中に聞きながら、
婆さまのこしらえた油あげ飯をいっぱい(でっつら)食べた。

「おら、油あげ飯食うといいのだす」

と、大満足。ひたすら食った。
一息つくと、娘は言った。

「爺さま、婆さま。
今に吉原からおれドコ、ぼっかけて来るサゲて・・・」

(これは翻訳しなくても分かりますね)

爺さまに、布団に寝て、病人になったふりをしてくれ、
と言うのである。

婆さまがわらわらと汚いわら布団を敷くと、
爺さまはそっと横たわった。
キツネっこは、たちまち爺さまの顔は青白く、
手足は枯木のように、髪はボウボウ、
見るからに5年も寝付いているような病人に仕立て上げた。

やっぱり誰かが激しく戸を叩いた。バンバン、バンバン。

「ここの家でないか、娘を吉原に売ったのは。
便所から逃げだして居なくなったんだ。
ここに戻って来ただろ!
(ここの家ンねが、娘バ吉原に売ったなワ。
娘、しぇんつから逃げて居ねぐなった。ここサ戻って来たっべ)

爺さまは、死にそうな震え声で言った。

(声まで化けるとは、ホント不思議ですね)

「何かの間違いでないですか?(何かの、間違いでねえすかや)

「いいや。何がしの何々っていう住所、ここに間違いないサゲて、
ここにサ、逃げて来たはずだ」

「おれ、娘なの持たねえぜ」

「かかサ、出せ」

って、婆さまに向かって、若い衆はすごんだ。

婆さま「こんな5年も寝ている病人が、
どのようにして、吉原まで歩いて行けるんですか?
わずか10日前に。
(何だって、こだな5年も寝てた病人、どげしてホノ、
吉原サ歩いて行くとこだ。10日前!)

「爺さんよ、歩けるかどうか這ってでもいいから、みんなに見せてやれ
(爺さま、爺さま。ほんだらば、おめえ、歩けるかどうか、這ってでもいいサケ、
皆サ、見せてみろ)

爺さまは、ふんどしもしないで、
アレを (スンナビを)、ツーツーぷらぷらさせながら、
ずりずりとわら布団から、這って出てきた。

それを見て驚いたのは若い衆。

「うわっ、こんな爺さま、吉原までとても歩いてなど、来られねえ
(何だって、こったら爺さま、吉原サなの、歩いてこれねな)

「こりゃ、ここの家でねえな」

と、一人が言った。

「んだけんどもよ、10日前に娘、売りに来たなア、
この爺さまと似ったぜエ」

と、年かさのヤツが言った。

婆さまが怒って言った。

「そんなに信用出来ないなら、隣近所へ行って、
この家には娘がいたかどうか、聞いてみてくれろ
(こんけい信用さんねえこったば、隣近所サ行って
“ここの家に娘、居たか?”って聞いてござっせ!)

若い衆達は、わやわや言いながら、
飛びだして隣近所へ聞きに行った。
どこへ行っても、

「あそこの家サ、娘なの、居ねな~」

という返事だった。
訳が分からず、キツネに包まれたような顔をして、
若い衆達は戻ってきた。

「だけど証文、ありゃ一体何なんだ
(ほだだて、証文だら、一体なにだや)
確かにここサ、ここの何村の何の何がしと書かってたはずだ!」

と、もう一度証文を取り出してみた所・・・。

ウワッ、

大事な証文は、いつの間にか白紙になっていた。

どうなったんだ??

どうしようも無くなって彼らは吉原に戻って行った。
彼らの姿が消えるやいなや、
爺さまはもとの“爺さま姿”になった。

キツネっこに千両も貰ったので、それからは婆さまと二人、
楽楽と暮らした。
だから生き物というものは、大事にするものだ。

どんべすかんこねっけど
矢作家前の雪だるま
矢作家(農家住宅として重要文化財)前の雪だるま、2月(新庄市)

スーちゃんのコメント



【語り部】 鈴木とし子さん
(昭和8年<1933年>8月10日生まれ)
【取材日】 2003年4月29日
【場 所】 河内屋(新庄市内)
【同 席】 黒沢せいこさん
【方言指導】 本沢邦宏氏(東京山形物産センター所長)
【取 材】 藤井和子

鈴木さんはこの昔話が最も好きなものの一つという。
どこかひなびたこの話は、
方言が紡ぐユーモラスな会話に味わいがある。
原稿を書きながら、ふふふ、なんて笑っちゃった!

さて、本当の遊女なら、
この娘っこにどんな運命が待っていただろうか。
幕府は、遊女奉公も普通の奉公人と同じように、労働者と認めた。
ただし、建前は、給金前払いの年季奉公と同じだが、
給金の代わりに前借金(身代金)が雇主(遊廓の主人)から、
遊女の親などに支払われた。
交わされる証文には、奉公人(遊女)が逃亡したり、
長く寝ついたり、商売に出られなくなったら、
遊廓の旦那は、蒙る損害を保証されたし、
遊女が死亡した場合、どのように扱われても異存はありません、
と書かれていたという。

(西山松之助編「遊女」、近藤出版社 1979刊)

奉公人は仕事先を探すために、
今でいう職業安定所のような所の「人宿」に泊まり、
「人宿の寄り子」と呼ばれた。
探してやる方は、「口入之者」とか、「口入人」と呼ばれた。

ところが遊女の場合は、「口入」ではなく、
女衒[ぜげん]と呼ばれた。
遊女屋自らが遊女を探すときや、
親元が娘を売り込む場合でも必ず女衒を通した。
いわば彼らは、楼主と親元とのパイプであり、
遊女専門の仲買人であった。
女衒は、娘を売りに来る親と話をして契約をまとめ、
遊女屋のニーズを汲んで娘を物色するために
買い出しに奔走したり、
ひどいのになると村娘を誘拐して
遊女に仕立てたという。

スーちゃんがほんの子どもの頃、祖母は

「そんなに遅くまで、外で遊んでいるとコオトリが来るよ」

と言ったものだが、子盗りだったのか。
のほほんとした小豆島で、戦後、
子どもが居なくなった話は聞かったけれど。
曾祖母は江戸時代末期の人だが、
祖母は自分が母親から言われたことを孫に言っていたのだろう。
150年位の昔には、
夕方、姿を消した子も居たのだろうか。

遊廓に送り込まれ遊女になった娘は、
来る日も来る日も身を売る苦界に沈んだ。
楼主は彼女らに、稼げ稼げと追い立てる、
暗くて救いのない生活が待っていた。
たとえ病気で死んでも、吉原の唯一の出入り口の大門[おおもん]から
出ることは許されなかった。
裏口から粗末な棺桶に担がれて遊廓を後にした。
遊女の投げ込み寺として今も有名な、
南千住の浄閑寺に運ばれた。
逃亡に失敗したら、
楼主の命を受けたやり手婆から手ひどい拷問を受けた。
みせしめのために、
絶命するまでやったこともあった。
これはもうC級グロテスク映画の世界であろうか。

こんな悲惨な裏事情は、
おいらんを中心とした男性天国的な表の華やかさ
とはまるで別世界である。
それだけにキツネの娘が遊廓から抜けでて、
妖術を使って追っ手をやりこめる本編はすがすがしい。
くるわの実状を知れば、
なおさらキツネを応援したくなる。

新吉原の大門
新吉原の大門 (「道楽世界早出来」より)