すが(つらら)女房
昔あったけど。
昔あっとこさ、貧乏な一人暮しのアンツアいたっけど。
なぜかして嫁もらいてえ、と思うけんど、貧乏なもんだサゲて、
なかなか嫁の来手が無かったんだと。
(次からは、全国区の読者の理解のために、
会話の後ろに注として方言を生かします)
ある冬の寒い日のことだった。
軒端につららがいっぱい下がっていた。
朝日にキラキラ輝いて、美しいすが(つらら)だった。
それを見てアンツアは、独り言を言った。
「本当にきれいなつららだなあ、
おれもこんな透き通るような嫁さんを貰いたいなあ
(きれ~な、すがだことやア、
おれもこなだ透き通るようだ嫁、貰いてえもんだな)」
するとその晩のことだった。
「ハイト(今晩は)」
誰か訪ねて来たような声がした。
アンツアは、
“誰なんだろう?(誰なんだベ?)”
と、訝しく思って表に出てみると、
それこそ透き通るような美しい娘が立っていた。
娘は言った。
「嫁、貰いたいとおっしゃったので、参りました
(嫁、貰いてえって言うサケ、来やした)」
アンツア、どてんして(びっくりして)いる内に、
娘はずんずん中に入ってきた。
(ま、押しかけ女房になったのですね)
この嫁さんは、朝から晩まで、驚くほど働いた。
(原文:あねっこの働くって、働くってよ。朝から晩まで働くなだけど。)
アンツアとあねっこは、仲良く暮らした。
3月、少し暖かくなってくる頃、嫁っこは、
だんだん元気が無くなっていた。
そうこうしているうちに、3月3日になった。
村の人達は、
・・・何だって、あんたら結婚式もしないで、ダメだな。
嫁っこ貰ったのだから、みんなでお祝いしよう。
すぐに皆でやって来ると、酒盛りが始まった。
その日は、皆で来てくれたので、あねっこは一段と働いた。
その時は、ちょうどお燗[かん]つけをしていた。
あねっこは、台所に立ったままなかなか戻ってこない。
「何で、いつまでも燗をつけているんだ!
(何だって、いつまでお燗つけしてるとこだべ)」
皆は、
「あねっこ、あねっこ。お燗、まだだかア?」
と、呼びかけても返事がない。
アンツアは、待ちきれなくなって、竈[かまど]の前にきてみた。
竈の前には、あねっこは居なくて、
ビショビショに濡れた着物が一枚あった。
アンツアは、これを見て、どてんして言った。
「ああ、おれの女房は、すが女房だったか。
燗つけに来て、
火の前で身体が溶けてしまった!」
スーちゃんのコメント
むかさりの式次第
嫁さんが持参する荷物は、式当日より早く届けた。 長持唄を歌いながら行く。長持唄は、
♪めでた、めでたの若松さまよ。
枝も栄えて、葉も茂る。♪
婿側では、その荷物が近づくと、次のように歌って迎える。
♪向こう見えるは、お荷物方か、
長の道中、ご苦労さまよ。♪
婿の家の前に一行が着くと、まず酒をついでくれて、
婿方が歌う。
♪運ぶお荷物、金銀珊瑚[さんご]
永の宝に、納めますぞえ。♪
この唄が済むと、荷物を婚家に納める。
婿方からは、迎えとして親戚3~5人がやってきて、嫁を警護する。彼らを「迎えよど」と、呼んだ。
1)嫁さんは、花嫁衣装に盛装して、父母にこれまで育てて貰ったお礼を述べて、きょうだいと親戚に見送られながら、実家の門を出る。 ここで、唄い手は、
♪傘を手に持ち、さらばと言うて
長、長、お世話になりました。♪
と唄う。
2)花嫁の行列が進み始めると先方に、近所の人達が待っていて、
♪わたしゃ、この道、止めるじゃないが、
唄も聞きたい、嫁見たい。♪
この唄で行列は、少し止まって、唄い手が唄で応える。
♪蝶よ、花よと、育てた娘
あとは、他人の手に渡す。♪
3)化粧直し
一行が婿の村に入ると、婿の親類の家に休憩し(小宿を取る、という)、着崩れを直した。
婿側では、“嫁迎え”といって、小宿まで7回半行くことになっていた。
(うああ、大変だな、と思ったら、さすがに昔の人達も便法を使ったようです。一回行って3回に数え、二回目で5回に、三回行って7回行ったことにした。それでも、3回は迎えに行ったのですね。)
3回目に、行列は出発しはじめる。
迎えの提灯[ちょうちん]と出会うと、“よど”の人、または唄い手(唄える人を頼んでもよい)が、祝い唄を唄いながら進む。
♪めでた、めでたの若松さまよ、
枝も栄えて、葉も茂る。♪
4)婚家の門口
行列が到着すると、結婚式定番の“高砂や~”が唄われる。
♪高砂や~、この浦舟に帆を上げて、
月もろともに 出で汐の 波の淡路の島陰や、
遠く鳴尾の沖過ぎて、
はや、住の江に着きにけり。♪
“高砂や~”の唄が終ると、花嫁は白無垢に着替えてすぐに仏壇を拝む。新郎、新婦と媒酌人は、 用意された別室で三三九度の固めの盃を交わす。
この間に、双方の親族の顔合せ、紹介がある。
ついで、媒酌人から、夫婦の盃、親戚の盃が滞りなく終った、という報告がある。
最後に結婚式の披露宴が催される。
(昭和8年<1933年>8月10日生まれ)
昔の嫁入りは、輿入れと呼んだように、
花嫁を輿に乗せて執り行った。
もし隣村など長い道中になったらどうするのかな、
と思うが、馬(や舟)に乗ったようだ。
現在は、自宅ではなく
ホテルや公・私立宴会場等で挙式するので、
花嫁の移動は無いも同然になってしまった。
緑の田園風景を背景にして、
しずしずと歩む花嫁行列は、
テレビの演出以外には起こらないのだ。
東北地方の嫁入りを“むかさり”というが、
新庄でもむかさりと呼ぶ。
これは、婿が嫁を家に迎えるという意味だそうだ。
伝統的な新庄の嫁入り・結婚式の様子を
知りたいと思って、三浦和枝さん(新庄文化プラザ館長)に
資料を拝借した。
(本コメントの後に別枠で記載)
三浦氏によると、
「昭和30年代までは、新庄市の周辺農村部では、
このように執り行われていた」。
いまは、もうやっていない。
東京のように神前・仏前・教会で行う、というコメントであった。
結婚式は、冠婚葬祭の一角、庶民のハレの日であるから、
花嫁の荷物運び(長持唄)や、
実家を出るときの掛け合いを含む別れの唄など、
決まりものがあって厳密に執り行われたらしい。
一読して、“うわっ、こんなに大変なの”と、思うほど。
おじさんや小母さん達も花嫁が
“二度と実家には戻らない”ように
祈りと惜別の思いを込めて、
別れを惜しんでくれる様子を唄はくっきりと描いている。
長い道中、小宿まで含む儀式を経て、
花嫁は実家とは異なる空間に旅立つことを
次第に実感しただろう。
新生活を覚悟しなくてはならないために、
時間と伝統的な儀式が必要だったのだろうか。
戦前・終戦直後の時代では、婿に会うのは、
結婚式の場が見合いについで二回目だったという話もある。
結婚式も婿との人間関係も、
家(household)を中心に据えた伝統的な社会と、
個人が大切視されている現在とでは、
すべて様変わりしたのは周知のことであり、
今さらここで云々するテーマではない。
「すが女房」のように、様式も儀式も
うんと省いてしまった「むかさり」から、
逆に個人の自由な気持ちと、庶民のペーソスが感じられる。