サトリの化物
昔々、あったけど。
あっ所サ(あるところに)、炭焼きして暮し立てているオヤジいたけど。
炭焼きなどしてれば、かんじき欲しいもんだサケ、
かんじき作る木でも取ってくっか(取って来るか)、
って山サ入って行ったけど。
ほして、やんべな(いい塩梅の)木、無えもんだサケ、
あっちだこっちだって探している内、暗くなってしまったけど。
(次からは全国区の皆様の理解のために、会話のみ方言の注を入れましょう。)
「ああ、暗くなってしまった。
こりゃ、炭焼き小屋にでも、泊まらねば
(炭焼き小屋サでも、泊まんべちゃワ。)」
家の人達も、遅くなった時は、炭焼き小屋に泊まるということを
知っているんだし、
そうするかな、と思って泊まることにした。
もう夜になるので、囲炉裏に火を焚いて、
かんじきを作る木を暖めようとした。
待つのも退屈なものだから、囲炉裏にワタシ(網)を渡して、
餅を焼いていた。
何だか、人が入ってきたような気配がして、バイ~って振り向いてみた。
何と何と、大男だった。
髭[ひげ]も頭の毛ももじゃもじゃ、マナグ(目)はらんらんとして、
それこそわかめのような着物を着て、縄の帯をしていた。
・・・ポツッと、囲炉裏の前に座った。
オヤジは、心の中でつぶやいた。
“おっかねえ、おっかねえ。何だや、この化物!”
すると、その男は、すぐに言った。
「オヤジよ、
“おっかねえ、おっかねえ。何だや、この化物!”
って、今、思ったな」
オヤジは、びっくりしたが、
また心の中でつぶやいた。
“いやいや、何者だろうこんな奴。
早く出て行ってくれないかなあ
(何だなだや、けずげだもの、グーグと出て行って
きんねえがな。)”
間髪を入れずに、化物は言った。
「今、オレどこ、“グーグと出て行ってきんねえか。”って思ったな」
オヤジは、
“恐ろしい、恐ろしい。
サトリという化物が居るという話を聞いたことがあるが、
こいつはサトリの化物じゃないか?
(あらア、おっかねえちゃ、おっかねえちゃ。サトリっていう化物居るって
聞いたことあるども、こりゃサトリじう、化物んねなだかや?)”
と思った。
すぐに、大男はこう言った。
「オヤジよ、この化物、サトリという化物でないか?
(この化物、サトリじう化物んねがや?)
と思ったな」
オヤジは、
“やっぱり、そうなんだ!(やっぱり、んだなあ!)”
と思った。
その時、いい塩梅に、餅が焼けてきた。
オヤジは、餅が惜しくなって思った。
“この化物、餅くれって言うだろうな。食わしたくないな
(この化物、餅くれって言うんなんなべやなア。食[か]へってくねえこと。)”
また、化物が口を開いた。
「オヤジ、“この化物、餅くれって言うだろうな。食わしたくないな
(この化物、餅くれって言うんなんなべやなア。食[か]へってくねえこと。)”」
オヤジは、思った。
“思ったことをペロリ悟るこんな奴、本当に憎たらしい!
(この化物、思ったことをペロリ悟られるけずれた者、本当にヌクタラスグド!)”
すかさず、化物は言った。
「今、オレどこ、“ヌクタラス(憎たらしい)”と思ったな」
そうしている内に、化物は餅をペロリと食ってしまった。
それを見て、オヤジは思った。
“憎いちゃ憎いちゃ、おれの餅、食いやがって!”
化物は、言った。
「“憎いちゃ憎いちゃ、おれの餅、食いやがって!”と、思ったな」
その言葉が終るか終らない内に、
火に暖めていたかんじきの木が弾けて、男の面[つら]にバーンと当たった。
(オヤジは、化物の相手をするのに、大忙し。
かんじきの木のことは、
すっかりお留守になっていたんですね。)
「痛てて、痛てて、痛てて。
人間は(人間じゃ)、思いもよらねこと、
考えるもんだ。
おっかね、おっかね。
こんな所には、居れないよ(こういうとこ、居らんね)」
そう言うと、すぐに(わらわらと)逃げて行った。
それからは、山に入って泊まる時には、
小屋の入口にかんじきを吊しておくようになった。
こうすると、化物が来ないといわれている。
例えば、VTRを再生すると、
発言者の言っていることをそのまま一言一句違わずに
レピートすることは出来るが、
これは、無機質的なロボットの世界である。
発言者の意図を察することは出来ない。
ところが、悟りの妖怪は相手の心を読む。
誤ることなく、実に正確に。
対座していて、とても気持ちがいいなら、
化け物ではなかろうが、炭焼きのオヤジはだんだん困惑し、
逃げだしたくなる。
そこが一見、賢いようだが、化け物の本性かもしれない。
スーちゃんは、この化物はいったい何だろうかと
ちらちらと考えたときに、フトあることに思い当たった。
仏教の言葉に、大円鏡智[だいえんきょうち]という知恵の働きがある。
これは、仏教でいう四智の最上位にある知恵の働きという。
「鏡に写すように、すべてを
有るがままに現し出す仏の知恵のこと」
(仏教日常辞典、増谷文雄、金岡秀友、太陽出版刊、1994年)
ありていに言えば、一を聞けば十を悟るセンスとでもいえようか。
物事の本質を鏡に写ったものを見るように、
瞬時に把握する力である。
一例をあげてみよう。
話は飛躍するようだが、これは編集者、
ことに書籍の編集者にはどうしても必要なセンスかな、と思う。
書籍のタイトルと筆者を聞けば、
その本がどういう構成なのかをすぐに把握できる能力である。
この力がなければ、「第一章はコレコレ、第二章はかくかく」と、
全部説明することになる。
全部説明しても判ってくれない編集長もたまには居るが、
こういう人物が上司だと疲れてしまう。
既存の書籍や、自分の常識を判断材料にするわけで、
けっしてオリジナリティーの高い
魅力的な本は出ない。
さて、本題に戻る。
悟りの化物はどうして、
このような不思議な力をもつようになったのだろうか。
大円鏡智を思い起こさせるのだから、
この化物は、仏教と関係があるのだろうか?
何か臭いませんか?
仏の世界ならば、大日如来に備わっている
大円鏡智の知恵の輝きであるが、悟りの化物は、
下品で卑しさが目立つ。
悟りの妖怪は、大円鏡智という知力をある程度持ったが、
曲がって体得してしまった、どこかで踏み外して化物になった、
のではないか?
彼は、如来の陰の姿、といった存在なのだろうか。