月の夜晒し[よざらし]
昔あるところにね、庄屋様の一人娘、居た。
その娘が婿様を貰ったんだと。
初めのうちこそ、娘と婿様は仲ようしてたんだけどもな、
次第次第にその娘、婿様のことを疎ましく思うようになってな、
疎ましく思うようになるとな、
クチャラクチャラとな、音を立てて、
飯を食うその飯の食い方も気に入らねえ、
ずるりべったりと草履引きずって歩く、
その歩き方も気に入らねえ、
何もかにも気に入んねえ。
しまいには、顔を見るのも嫌になった。
姿かたちは美しいし、朝から晩方まで、よく働いてくれる。
おとっつあまも、おかっつあまにもよく仕えてくれる、
これといって何の落度もねえ。
そんなことだから、別れるといったって、
二人は許してくれるはずもねえ。
(方言は、そう強くないのですが、次からは目で読む容易さを考慮して、
できるだけ共通語で書きます。)
娘は思案した挙げ句、山の婆さまの所へ行った。
婆さまは、山越えて山越えて山越えた所に住んでいてな、
娘が訪ねた時には、機織りをしていた。
娘は黙って頭を下げて
「実は・・・」
と、語り始めようかと思った時、
娘がまだ何も言わないうちに、クルッと振り向いて、
婆さま「思い残すことはねえか?」
と、聞いた。
娘がこっくりとうなずくと、
婆さま「したればなあ、ここからずうっと西の方サ、歩いて行くと、
虫がいっぺたかっている木がある。
その虫が繭[まゆ]を作ったら、月のまあるいきれいな晩に、
そこサ行って繭を採って来らんしょ。
その繭から糸を採ってな、月のまあるいきれいな晩に、
そのその糸をよって紡いでな、
紡いだ糸を機にかけて、布を織らんしょ。
その織りあげた布を月の光に晒[さら]して、
その布で婿様の着物を縫わんしょ。
したが着物が出来上がるまでは、人に気付かれねえように、な。
着物が出来たら、月のまあるいきれいな晩に、
それを婿様に着せ掛けてやらんしょ」
そう山の婆さまが教えてくれた。
娘はその足で、西の方へ歩いて行って、
虫のいっぱいたかっている木を見て来ると、
その虫が繭[まゆ]を作るのを待って、
月のまあるいきれいな晩に、そこへ行って繭を採ってきた。
その繭から糸を取って、
その糸を機[はた]にかけて、布を織った。
織り上がった布を月の光に晒して、
月のまあるいきれいな晩に、婿様の着物を縫った。
月のまあるいきれいな晩が来るのを待って、
婿様に言った。
「おめえ様、着物を縫ったから」
そう言って、後ろから、着物を着せ掛けた。
婿様は、たいそう喜んでなあ~。
その着物を着たのだけれど、その着物着たまんま、
スウッととんぼ口(裏口)の方へ歩いて行くと、
そのまま外に出て、帰って来なかった。
娘は、そのまま過ごしていたが、だんだん気になり始めた。
気になって気になって仕方がない。
また、あの山の婆さまの所に行った。
婆さまは、また、機織をしていた。
娘が頭を下げて、「実は・・・」と語りだそうと思ったら、
婆さまはクルッと振り向いて、
「気になるか?」
ときいた。
娘がうなずくと、
「したればなあ、
月のまあるいきれいな晩に、六道の辻サ、立っててみろ」
と、教えてくれた。
(注:六道の辻とは、この世とあの世との境の辻。冥土への入口とされた。
例えば、京都では東山区六道珍皇寺の門前の丁字路を指す。)
娘は、家に戻ると、
月のまあるいきれいな晩を数えて、
六道の辻に立っていた。
日が沈んで向こうの山から、まあるいきれいな月が出てきた。
すると・・・
その月の光を背にしょって、
白い着物を着た人が、スウッと娘の方に近づいてきた。
“あれ、おらの婿様だべか?”
そう思って見ているうちに、その男はスウッと娘に近づいて・・・
娘のことが、見えるんだか見えないのだか、
娘の方には見向きもしないまま、娘の脇を通り過ぎる時に、
こんな唄を歌って行った。
(平野さんは、ふしをつけているが、まるでお経を唱えるように歌った。)
♪月の~夜晒し、知らで~着て、
いまは~、夜神の 供を~する♪
語り部の平野さんは、
福島県出身で結婚して松江にずっと住んでいる。
「私は本物の出雲弁はしゃべれません。
ですから、自分にとって(母国語の)福島のことばで、
福島の話をします」
と前置きして語ってくれた。
この話は、鈴木棠三氏によると、佐渡ケ島で
聞いた記録があり、
新庄市(山形県)で聞いた人がいるだけという珍しい民話という。
(「ガイドブック日本の民話」講談社刊、1991)
平野さんは、福島県三春町出身の語り部、
遠藤登志子氏(故人)の語りの流れを汲む
藤田浩子氏の語りや本を参考にしたそうである。
繭から着物を仕立てるまでのすべての作業を
満月の夜に行って、
疎ましくてたまらない亭主を亡きものにするという、
背筋の凍るような話である。
その費やした時間は呪いの五寸釘どころではない。
一反の織物を織るには、どれだけの時間が必要なのか。
以前、南国の離島で聞いた、紬[つむぎ]を織る場合の話であるが、
●機を織る前に、うを積んだり染め付けたり、
さまざまな準備があり、これに3ケ月かかる。
●織り始めてから織り上げるまでに、ほぼ一ヶ月かかる。
●さらに着物を縫い上げるのに、数日かかるとみてよい。
連日、朝から夕方まで、ぶっとうしで作業をしても
これだけの時間を費やすのだから、
年間12~13回しかない満月の夜の手仕事では、
いったい何年かかったのだろうか。
そもそも相手に対する憎しみを相手に隠したまま
持ち続けることが出来るのだろうか。
この娘の、何年も持続するどす黒い感情のど迫力に、
くらくらと目まいがするほどだ。
嫌悪感は日を重ねるとともに濃さを増し、
憎しみの深淵にどっぷり漬かってしまうと、嫌悪感が、
・・・変な言い方だが・・・ 好きになってしまうのだろうか。
寝てもさめても頭から離れない嫌悪感というもの、
こんなのが生きがいになる、
という事態である。
定年退職の日を待って、
離婚届を突きつける妻がいたとする。
何年も何年もかかって、経済的自立を目指して
へそくりを貯めたり、自活できる資格を、
むろん夫には気取られることなく準備する。
昔も今も、夫から逃げようとする妻の
“何年かかってもいい。”とする準備力は
同じような根深さがあるのだろうか。
2007年4月1日以降は、年金分割制度が始まり、
夫婦間の合意や裁判所の決定があれば、
年金の合計の半分を上限として、
妻は婚姻期間の年金の分割を受けられるようになる。
じっと眼を伏せて、何年も我慢している妻が
一斉にものを言うのだろうか。
男性向け夕刊紙「夕刊フジ」あたりは、
定年後になって、“妻に捨てられない夫の条件”
を記事にしたりしている。
電車などで、
それこそ食い入るように、読んでいる中高年男性がいる。
スーちゃんは、記事を見ないで、
横目使ってその人の表情を見ているが、
本気出して読むのかしらん。変なの。
スーは、とても仲のよかった、
それこそ博物館にでも入れておきたいご夫婦を
何組か知っている。
三浦綾子さん、壷井栄さん、
小此木啓吾・栄子夫妻(啓吾先生は精神分析医)などなど。
共通していることは、さまざまの苦難を乗り越えたり、
10代から仲のよい友人同士だったりして、
しっかり二人で築いた世界があることだ。
相手に対する信頼と思いやりに満ちた言葉、楽しいやり取りは、
何度お邪魔しても、帰りたくないほどだった。
そう、こちらも楽しい時間を共有できたから。