猪苗代湖の主
ざっと昔のことだ。
ある庄屋様のうちサ、一人の若え者、たずねて来たと。
身なりきちんとしてな。
稟(りん)とした顔をした、いい男であったと。
「庄屋さま、どうかこの辺で、
おれンとこ置いてくれるうちねえかな」
よく見るといい男だしな。
ちょうど、山桜も咲きはかって、磐梯山の雪も溶けて、
村では田植えするときだった。
人手、何ぼあっても足りねえから、
「ああ、いい。おらの家でしばらく居たらよかっぺ」
なんてな、庄屋様その若え者、置いてくっちゃと。
(次からは、目で読む容易さを考慮して、
必要に応じて会話のみ方言の注を入れます。)
その若者は、翌日から働き始めた。
いやよく働くこと、働くこと。
朝早く起きては、水汲みをする、
昼間には、昼休みだというのに、じっとしていないで
庭の掃除をしたりした。
神事の日にも、・・・この日は神様が、おめらも休めよ、
仕事すんなよという日だけんじょな・・・
その男は、じっとしてないで、
その辺りにある丸太んぼとか、芝とか取ってくると、
それを割っては薪にして、ちゃんと並べて置いた。
庄屋がやって来ると、被り物の手拭を取って、
「おはようごぜえやす」
と、挨拶もした。
どっから来たか分からないし、仕様がないなあと思ったが、
身上話を聞こうかなと思っても、そういう時には決って
「いやいや、ちょいと訳がごぜえやして」
と言って逃げた。
自分のことなどなに一つ、語ろうとしなかった。
しかし、どんなひどい田でも泥田でも、
村の誰よりも手早くやったものだから、村の衆は、
「庄屋さまンちは、いいなあ。
あんないい若え者、授かっていいなあ」
と、うらやましがっていた。
そんな風だから、村の若い娘だって、ただではおかない。
「ちょっと一晩でもいいから、オレ寝てみっちなあ」
なんてなあ。
誘い水かけるのだけれども、
いっこうに誘いには乗らなかった。
そうこうするうちに、3カ月が過ぎた。
田植も終わり、
田の草取りも終って一段落したときのことだった。
その日は、とにかく朝から暑い日だった。
「こんな暑い日には、おまえも働いてばかりいないで、
昼休みしたら、どうかな
(こんな暑い日は、二者、稼いでばかり居ねで、
昼休みでもしたら、なじか?)」
と、庄屋はその若者に言った。
いつもなら、
「いやいや、オレはなあ」
と言うところだが、
その日は、汗がポトポト落ちるような暑い日であった。
「じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きやす」
そう言って、自分の部屋へ入って行った。
ところが昼休みの時間をすぎても、
その若者は起きて来なかった。
“どうしたのかな、いつもの疲れが出たのだろうか?
もうちょっと寝かせてやろうか
(何だべな、いつもの疲れでも出ただべか? ちっと寝せてやっか。)”
そう思って、待っていた。
しかし、庭の松の木に当たる陽が、
だんだん下の方に傾いて来ても、いっこうに起きて来ない。
“どうしたのかな、これは(何だべな、これは。)”
と思って、悪いなと思いながらも、
庄屋は若者の部屋の前に、足を運んだ。
・・・と、
庄屋の顔はみるみる青ざめて、額から脂汗を流し始めた。
何と! 中から聞こえてきたのは、片いびきだった。
昔の人の言っていたことを、突然、思いだした。
“人間というものは、吸う息と吐く息で、二回、いびきかく。
蛇なんてはなあ、
吸う息だけで吐く息ねえから、片いびきなんだ。”
庄屋は、中にいるのは何なんだ、と疑心暗気になった。
“あんないい男がなあ。”
と打ち消したりした。
いやいや、昔の人のいうことは、本当のことだ。
もう我慢できなくなって、
戸の隙間からそうっと、覗いてみた。
イヤイヤ、イヤイヤ、覚悟はしていたとはいえ、
庄屋は、驚きで声もでなかった。
・・・そこには、湖水の方を枕にした、
青黒い鱗[うろこ]ピカピカ光らせたでっかい蛇が、
寝そべっていた。
イヤイヤ、庄屋はぶったまげて、
そーっと戸を締めて、自分の部屋に戻ってきた。
そこにあったうちわを、パタパタ、パタパタ扇ぎながら、
部屋の中を、わけもなくグルグル、グルグル回った。
“あんないい男がなあ! 大蛇だなんて。”
“待てよ、何ぼヘビだっても、あんなに働いてくれるのだから、
今見たことは無かったことにしよう。
(何ぼ蛇だったってな、あんなに稼ぐちゃもなあ、
今のことは、見なかったことにして・・・)”
“(起きてきて)お茶が飲みたいと言うなら、
いっぱい、飲ませてやろう。
また、野良にだしてやろう
(お茶飲みてなら、一杯でも飲ませよう。
また、野良サ、出してやっぺ。)”
そう思って、気を取り直した。
その時、後ろの方から声がした。
「庄屋様、いろいろお世話になりやした」
ハッと後ろを振り返ったら、前にもまして、
きちっとして稟とした顔をした若者が、両手を付いていた。
「いやいや、正体見られたら、もうここには居られねえ。
実はおれは、猪苗代湖の大蛇だ」
若者はとんでもないことを言い始めた。
それによると、
“自分は、何千年も前から何事もなく、平和にこの水を治めてきた。
あるとき、神様のお告げがあって、
会津平の方も治めよ、ってことで、
只見川と大川の重なる淵サ住み着いて、
三年という月日が経った。
ところが、よくない噂が聞こえてきた。
自分の居ないことを幸いにして、
ウナギのヤローが猪苗代湖に棲み着いて、大暴れしている、
おれが主[あるじ]だなんて言って、大きな顔をして暴れている。
そこで、人間の姿に化けて、あたりの様子をさぐっていた。”
若者は、一気に人間に化けたわけを話した。
次に庄屋に、「二つのお願いがごぜえやす」と話し始めた。
「ひとつは、そこに飾っている刀、
それをちょっと貸して貰えねえか?
明日、おれ、そのウナギの奴と決闘すっから。
ふたつめは、決闘の立会人になってくだされ。
もし、おれが負けたら、湖水の水はそのまんまの色で、
もしおれが勝ったら、
ウナギの奴の血で湖水を赤く染めてみせっから」
そう言うと、その刀をすっと持って、
トットトットと湖水の方に向かって、出て行った。
“これも何かの因縁だべ。”
庄屋は、その後ろ姿に手を合わせた。
次の日の朝、お天道様が上がってきた。
・・・猪苗代湖の水はキラキラ輝いて、
真っ赤に染まっていた。
それからの猪苗代湖は、平和な日が続いたという、
そういう話だ。
皆さんは、ヘビに対してどういう印象を持っているだろうか。
ヘビにはまぶたがないために瞬きができないとか、
視覚が弱く、ぺろぺろと赤い舌を出すのは、そんな弱い視覚を
嗅覚で補っているとか、
何と目まで含めた、全身の全てが脱皮するとか、
神秘的ともいえる個性的な性質がある。
こんな爬虫類をペットにしている人もいるから、
世の中、いろんな人がいるものだ。
だが実のところ、ぺろぺろ舌をだしたり、のたくって進むヘビは、
田んぼや山道で、何回か遭遇したことがあるが、
実に薄気味悪い。
この生身のヘビは、民話の中では、脱皮するヘビの
イメージから「再生」とか「旺盛な生命力」とか、
人々に訴えかけるドラマ性を持つ、神秘的な存在である。
本編では、湖の主としておでましになっている。
はじめ、この若者は水神だろうか、と思ったが、
自らを次のように言っている。
「自分は、何事もなく、平和にこの水(猪苗代湖)を治めてきた。
あるとき、神様のお告げがあって・・・」
神様とは、水を司る水神であろうか。
すると若者は、水神ではなく、神の奴、神司の立場になる。
うなぎとどうやら、同格らしい。
彼らが生きている水の世界とは、
昔の人々の想像力が作り上げた、水中の異界である。
湖や池、海、川や淵などの中には、
現世と異なった異次元の世界がある、
とする考え方である。
例えば、海の中の異界には竜宮城というユートピアがあって、
浦島太郎が婿に行ったし、
湖や池の主(多くは蛇体)に魅入られて、
若い娘が花嫁となった悲話もある。
本編の主人公は、
そういう異界を治める代官とすれば、分かりやすい。
ただし、ヘビやうなぎや竜など水に関係の深い生き物が、
水神そのものと考えられているフシもあるから、ややこしい。
たとえば次の記述である。
「高い山から平野の川をのぞめば、くねくねと曲がって流れる川は、
蛇やうなぎを連想させるし、
かれらは水に棲むから、これらの動物が水神とされた。
また水神様の蛇は、頭に白い鉢巻がある」(佐藤 光民)
(「西郊民俗」第9号、P227、昭和34年4月刊)
神様というのは、常識からいえば、
尊厳があり人に優しいものであるが、
そればかりではないものもいる。
民話の中には、水に引き込もうとする水蜘蛛(水ぐも)や、
悪さをして喜んでいる河童も、
水底に棲む水神として扱われたりする。
怪異な行動をとる彼らまで、神様にしていいのか、と思う。
彼らは、本来の水神がどこかで道を踏み外した結果、
水神に成り損なったか、水神の零落した姿となったもの
と思えば、合理的かもしれない。