むじなとトッツア

(新潟県、長岡市、旧越路町)

語り部の高橋ハナさんは、今年満92歳。
よく透るハキハキした声で、よどみなく昔話を語る。
名の知れた伝承者にふさわしい語りの名手である。

語る高橋ハナさん
語る高橋ハナさん

昔あったてんがな。
ある村で、毎晩、
化物が出てどうしようもねえ。
庄屋さんが、

「誰か退治してくれる人がいないかな?」

そこで、頭の出来る利口なとうちゃんが、

「おれが一つ、行ってみましょうかのう」

庄屋「そうか、行ってくんねいか、頼む」

(次からは全国区の皆様の理解のために、会話のみ方言の注を入れます。)

トッツアは、なたを一丁持って、化物の出る場所に行った。
そこには大きな(でっこい)木があるが、
てっぺん(てっちょ)まで、なたを持って登った。

・・・暗くなるまで待っていた。

だんだん周りが暗くなり、やがて真っ暗になった。
向こうから、若い男がちょうちんを下げて、
トットトット、トットトットと、 やってきた。
トッツアがいる木の下まで来ると、大声で呼びかけた。

「トッツア、トッツア、(おまえの)婆さんが死にそうだから、すぐ来てくれ
(トッツア、トッツア、婆さが死にそうだスケ、来てくらっさい。)

「婆さんが死にそうでも、おれア行かないぞ
(婆サ死にそうでも、おれ行がないぞ。)

男は帰って行った。

しばらくすると、またさっきの男がちょうちんを下げて、
木の下にやってきた。

「トッツア、婆さんが、死んでしまった。
早く来てくれ、皆が待っているから
(トッツア、今度ア婆さ、死んでしもうたで。早よ来てくらっせい。
皆が待っているスケに。)

「婆さ死んでも、おれ行がない」

仕方なく、その男は帰って行った。

またそれからチイとして、
向こうからちょうちんを下げた葬礼が現れた。
大勢がぞろぞろ、近づいて来た。
棺桶下げてね。

(ここで、ハナさんが「棺桶、分かりますか?」と、尋ねた。
スーちゃんには分かりますが、都会の葬式等は霊きゅう車で行くから、
霊きゅう車が棺桶だと思っている若い人がいるかもしれませんね。)

大勢して、チンドンガサリ、チンドンガサリと、棺桶を下げてやってきて、
トッツアのいる木の下に来ると、棺桶を降ろして、
お経をグシャグシャと申すと、
みんな帰っていった。

誰も居なくなると、棺桶がプチンプチンと音を立てて、
蓋がポコッと取れた。
中から、真っ青な顔をした婆さんが、ニュルヅッと出てきた。

妖怪学者、井上円了の生家慈光寺
妖怪学者、井上円了(1858-1919)の生家慈光寺
写真提供:高橋治道氏(長岡市旧越路町)

婆さんが、ムザンムザンと這上がって来て、
トッツアのいる木の上に登ってきた。

「おれが死んだっていうに、なぜ来ない?
(おれが死んだてがんに、なぜ来ねや~。)

だんだん近づいてきて、・・・その気味の悪いこと・・・
婆さんの手が延びて、トッツアの足を掴もうとした。
その時、トッツアは、なたを振るって、
婆さんの頭を力いっぱいはたいた。
婆さんは、キャ~キャ~ッと叫ぶと落ちて行った。

まわりはまだ夜。
トッツアは、夜が開けるのを木の上で待っていた。
夜が開けて明るくなって来ると、
村の衆がゾロゾロやってきた。

「退治できたかア~? 退治できたかア~」

と聞いている。

トッツアが木から降りて婆さんの落ちた木の下をみると・・・
でっこいむじなが、死んでいたと。

これでいちげがポーンと切れた。
越路町は蛍の里(撮影地:巴ケ丘自然公園)
越路町は蛍の里(撮影地:巴ケ丘自然公園)
6月末~7月初めには、日没後の旧越路町のあちこちに蛍が美しい。
蛍祭りは、6月24日
写真提供:長岡市役所、越路支所(産業課)

スーちゃんのコメント



【語り部】 高橋ハナさん(大正3年2月生まれ)
【取材日】 2006年5月24日
【場 所】 高橋ハナさん、自宅
【取 材】 藤井和子

越路町は、見渡す限り植え付けたばかりの
青々とした稲の苗が広がる田園地帯だ。
路線バスは通っていないので、タクシーに乗る。

(バスは車の運転が出来ないお年寄り、 子どもの生活必需品。
いくら採算性重視といってもねえ。)

運ちゃんが長岡市からの応援部隊とかで、
地理を知らないという。
おまけに無線の指示も怪しかったので、
迷いに迷い、手近のJR来迎寺駅からでも、
メーターはびんびん上がる。

・・・ホント田舎に来ちゃったなあ。

人影のない数軒しかない集落で、
洗濯物を干している主婦をようやく見つけた。
たずねると、ハナさんの家は、すぐ2軒下だという。
格子戸を開けて、土間に続く縁側から大声で
「ごめんください」と、 何回か呼びかけると、
ハナさんが奥からもそっとお出ましになった。
お耳が遠いようだ。

「ここがよく分かりましたなあ」。

それでも座卓に座って、ゆっくりとお茶を飲み、
昔話になると、しゃきっと背を伸ばして、語り始めた。

「私は声が大きいから、マイクは要りません」

とおっしゃる。
対座するので拡声器ではなく、
録音用のマイクです、と説明した。
御年満92歳というが、声も記憶も若々しく、
よどみなく昔話の世界に入る。

・・・演じず、作らず。

こういう語りを「王道を行く語り」というのだろうか。
なぜかフト、有名な金言を思いだした。

「野の花は働かず、紡がず。
・・・ソロモンの栄華、如何に装えど、
野の花の一つだにしかざりき
(野の花は装うことをしない。栄華を極め、装いをこらした
ソロモン王でさえ、ひっそりと咲く野の草の
一本にもかなわない。)
(マタイ伝6‐29)

舞台やTVで俳優・女優の演じる
巧みな語り口ではないが、
作らない自然の語り口が、パワーが、
聞く者の耳に迫って来る。
言い替えれば、何百回聞いても、
スーは飽きないだろう、という確信である。

ハナさんの語りの背景は、
どうやって生まれたのだろうか。

・・・ハナさんは、1914年(大正3年)
豪雪地帯の旧越路村の
越路原丘陵に広がる集落に生まれた。
2月生まれというから雪が深く、
寒い寒い季節だ。
6人きょうだいの5番目に生まれて、
きょうだい達と一緒に、炉端を囲んで、
おばあさんや母親から昔話を聞いたという。
大人達がよなべをする夕食後のひとときとか、
農作業の出来ない冬は、
ほぼ一日中のことであった。
実家は、農作と養蚕で生計を立て余裕もあったが、
小学校5年で父親を亡くした。
そのため、小学校を出ると、
家計を支えるために、
群馬県の製糸工場に女工として就職した。
1936年(昭和10年)、親戚筋同士で結婚して、
6人の子どもをもうけた。
幸福は長く続かず、
ハナさんは44歳で未亡人となり、
4人の子どもが残った。
どんな仕事でもして、
文字どおり寝食を忘れて働いたという。

(こういう母親が、昔の日本を支えたのでしょうね。
日本女性が“大和なでしこ”と、呼ばれた頃かな)

ハナさんは135話を覚えていて、
その7割程度は、
祖母と母親から聞いて覚えたらしい。
要するに、丸暗記で覚えた話ではなく、
自然に身体に染み込んだ昔話である。
それが、90を過ぎた人の口から出て来ると、
話者の人生の哀愁とか喜びとかがブレンドされて、
スーちゃんは、醸し出す圧倒的なパワーに
ポーッとなってしまった。

ハナさんの語りを聞いて、3日後、
旧中里村(十日町市)の樋口倶吉さんの
昔話を伺ったのだが、
樋口さんは、高橋さんのことを覚えていて、

(民話語りの会では、自分の語るときに)高橋ハナさんが、
合の手の“サース”“サスケ”を入れてくれます」

と述べた。
年の近い名人どうし、
呼吸はさぞぴったりだったでしょう。