塩吹く臼(うす)
昔あったけど。
あるところの小さな村に、
あにゃ(兄)とおじ(弟)と二人で住んでいたけど。
あにゃは、独りもんで身生[しんしょう]をいっぱい持っているけど、
とにかくすごい慾たかり。
おじ(弟)の方は、家作があって、子どもも3、4人いた。
人付き合いがいい故に貧乏な暮しをしてあった。
(次からは、目で追う容易さを考えて、方言は会話を中心に書きます。)
弟は、夏、働いていたけれども、正月近くなったというのに、
明日食う米が無い有様だった。
・・・正月の年取りも無い、子どもも育てなくてはならない。
仕方が無い、兄の所で米を借りてこようか、
と思って出かけて行った。
「兄さん、すぐ正月が来るのに、年取りの米がないんだ。
ちょっと貸してくれないか?
(あにゃ、正月来んども、正月の年取りもねえ。ちょっと貸してくれちゃ。)」
「おやおや、おまえは、嫁も子もいるのに、
正月に食う米がないとは、いったいどういうつもりだ?
(ん? なは、かかもあって子どももあって、
正月に食う米ねえとは、どういうがんだや?)」
兄は、米一粒も貸してはくれなかった。
・・・どうしようもねえな、と、うつむいて、
夜道をとぼとぼと歩き始めた。
道の端っこの方に、
白いひげをはやしたお爺さんが、ぼそっと立っていた。
「おじ、おじ。
今日は暮れの30日過ぎだが、何があったかな~?」
「あにゃに年取り米、借りに行ったども・・・」
と、わけを話した。
爺さんは、
「そうか。では、おれが、宝物をやろう(おれが宝物くれるがや。)」
そう言いながら、懐から石臼を取り出した。
「これはの、石な臼て言うんだ。
欲しいものあったら、願えば何でも出してくれる」
そういって、回し方を教えた。
・・・左に回せば、好きなものがいくらでも出て来る。
要らなくなれば、右に回せ。
家に帰ると、かかに話した。
・・・白いひげの爺さんが、うんぬん。
ふたりでちょっと試してみた。
左に回しながら、「年取り米、出れ出れ!」と言うと、
米がどんどん出てきた。
次に「年取り魚、出れ出れ!」と言うと、
魚がどんどん出てきた。
そのおかげで、いい正月をした。
やがて、小正月になった。
小正月には、いい家が欲しくなった。
臼を左に回しながら、
「ええウチ出れ、ええウチ出れ」
と言うと、立派な家が出てきた。
いい家が出来たし、
小正月には、お披露目に親類を呼ぶ段になった。
誰を呼ぼうかと、額を突き合わせて、かかと相談した。
米一粒さえ、貸してくれなかった兄だが、
兄弟だから呼ばねば、ということになった。
客は、豪華な家に呼ばれてきた。
家ばかりではなく、ご馳走もださねばならない。
また、左に回しながら臼に頼んだ。
「ご馳走、出てこい(ごっつお、出はれ!)」
呼ばれてきた兄は、何とも不思議で仕方がなかった。
“少し前までは、年取の米を借りに来た弟が、
なんでこんな立派な家を立てたり、人を呼べるのかなあ?”
弟のすることをじいっと眺めていると、
隅の方で石臼を一生懸命回していることに気が付いた。
“ああ、おれも回してみたいな。”
そのうちに人がガヤガヤと帰り始めた。
兄は、どさくさに紛れて、
こっそり石臼を懐に押し込んで逃げだした。
寝屋の浜(山北町の地名)まで、息が上がるほど、走った走った。
・・・自分でも、幾分か切ない思いがしたけれど。
(なんぼか、こう、わで切ねえけどもな。)
もやっていた小舟を盗んで、飛び乗った。
沖へ沖へと漕ぎ出した。
弟の家で、たらふくご馳走やお菓子を食ったので、
なぜかしょっぱいものが欲しくなった。
“しょっぱいもの? 何出したら、ええかな?”
そうだ、まず塩を出そう、と思った。
“あれれ、回し方、わかんねえな。
くそ! 弟のやつ、こう回していたっけ?”
やみくもに回しながら、「塩が出れ、塩が出れ」と、
唱えながら回した。
塩がもっくもっくと出てきた。
どんどん出てきて、小舟は塩でいっぱいになった。
止めようと思っても、止め方を習って来なかったので、
止め方が分からない。
塩は出っ放しになってしまった。
塩舟は、とうとう転覆した。
兄はあっぷあっぷ・・・
石臼は、舟の中で休み無く回わりっぱなし・・・
今なお、海の中で臼が回りっぱなしなので、
海の水はしょっぱいという話だ。
歴史ものの洋画、例えばローマ帝国を描いた洋画で、
円陣になった奴隷達、または一群の力のある動物が、
巨大な石臼を曵いているシーンがある。
疲れはてて、ようやく回している奴隷の様子から、
石臼ひきは、疲労の激しい長時間の苦役を象徴していた。
パン(粉食)を主食とするヨーロッパ人にとって、
石臼で小麦をひく製粉作業は、一日たりとも欠かせない重労働で、
だからこそ奴隷や力業を利用して、動物を使役したのだった。
一方、米食を主食とする日本では、
粉食は麺類や餅、お茶(抹茶)や和菓子を作るときなど、
副食や嗜好品に限られていたので、
石臼ひきにはどこかのんびりした歴史がある。
日本では、例外的に石臼のない文化さえあった。
石臼を使わないで、歯芽を咬器として粉を作る伝統が、
かつてアイヌ文化にあったという。
歯を石臼にして、米から粉を作った。
どのようにして?
歯は食物を噛み切る、砕く、摺りつぶす働きをするが、
この製粉方法では、摺り合わすことに特化していた。
・・・明治以前に、米から「だんご」を作るときに、
前歯を摺り合わせて米粉を得たらしい。
実にスピーディな仕事で、
粉を濡らさずさらさらした米紛をすばやく得たと聞く。
(三輪茂雄著「臼」1978年、法政大学出版局刊、p44)
30年も前の1978年でさえ、この技の出来るお婆さんは
もうほとんどいないというのだから、
今ではこの技術は消滅しているかもしれない。
スーはこの話を聞いて、
“究極のローテクは、ハイテクに通ずる。”と感慨を持った。
スーは、5,6歳の幼女の頃に、
祖母が石臼をひいていたことを思い出す。
大豆粒が粉になって、上下の石臼の間から
こぼれて行くのを見ながら、
祖母の側でとりとめのない話を聞いた。
例えば、祖母いわく、
「美人の娘xxは、△△家の息子から結納が入っていたが、
息子の方が断わったらしい。
断られたら、もっといい家に片づくもんだ(嫁に行くもんだ)。」
なんて、6歳の孫娘に言うのである。
スーちゃんは、話の内容や意味など、
詳しいことは皆目分からなかったが、
よい方になるんだな、と思った。なぜか安心した。
自分を愛してくれる家族の言葉は、
子どもの頭にくっきりと残っていく。
子どもは、聞いた言葉を、たとえ内容は理解できなくても、
その時の暖かな話の雰囲気もろとも、
脳裏に刻み込んでゆく。
祖母は、前の晩から浸水させてふやかした大豆を、
石臼の穴から少しずつ落とし入れて、
石臼を回しては、荒引きの大豆粉を作った。
夕御飯には、美味しい呉汁[ごじる]となって、食膳に並んだ。
今でもスーパーで呉汁の素を探すが、
呉汁はこんな記憶とセットになっていて、
わが食欲をそそる。
石臼のゴソゴソ回る音、大豆が粉となって、
上・下の石臼の間から、ざらざらこぼれる音・・・
石臼をひく祖母の手元。
祖母は、石臼を右手で時計と反対方向(左回り)に
回していたように思う。
石臼をひく真似をすると分かるが、右利きにとっては、
取っ手を掴んで、右に回すのは、抵抗感があってやりにくい。
それに左回転の方が、連続して回しても疲れない。
右に回すと石臼は動かなくなる・・・
石臼の上臼と下臼の目立ての噛み合わせは、
どんなに回しても、動かない目立てになっているという。
石臼は、その古くからある歴史を見て行くと、
日本人の食べ物に対する畏敬の念を知る上で興味深い。
嫁入り道具に石臼を持参したり(岐阜、石臼は重いので、
どっしりと婚家に落ち着くように。食べ物に困らないように。)、
不要になった石臼は、
二つに割って“魂を抜いてから処分する”風習など。
食べ物を作ってくれた石臼を足下に踏みつけたり、
ごみ溜に不用意に捨ててはいけなかった。
石臼のこんな背景があって、本篇は成立したと思う。
高速粉砕機ではなく、臼と杵の原理を利用して、
臼で香辛料を搗いて作る。