河津町のこと。
伊豆半島の南端に近い半島東部にある細長い地区。総面積100.79km、人口8247人(2006年11月現在)、年間平均気温約17度と暖かく、緋寒桜と大島桜の交配種とされる真冬に咲く桜で有名。川端康成の小説「伊豆の踊り子」の舞台としても著名な町。
河童の瓶[かめ]
語り部の稲葉さんは、話した。
「ここ(河津町湯が野)から、河津川を少し下ったところに、栖足寺[せいそくじ]という大きなお寺があります。近くを河津川が流れていて、寺のそばの淵を裏門[うらもん]と呼んでいたものでした」
ついで、本編に入った。
その日は寺の田植えだった。
大勢の檀家衆が、総出で手伝ったので、早めに終った。
馬を裏門(寺の近くの淵の通称)で洗っていると、
馬がどうしたことか前足を上げて暴れ始めた。
ハイドウドウ・・・
いくらなだめても暴れる。
おやっ?
尻尾に河童のヤツが、取り付いているぞ!
「ウチのせがれが、水浴びしたときにいたずらした河童だ」
「ウチの娘も川に引っ張り込まれた」
みんなは口々に叫んで、鍬[くわ]や棒で打ち掛かって、
殺そうとした。
その騒ぎを聞きつけて、和尚さんが飛び出てきた。
「めでたい寺の田植えじゃ。殺生はいかん」
「こやつは、馬を脅かしたり、
この辺の子供に悪さをする悪い奴ですよ」
村の檀家衆は、にくにくしげに言って、鍬や棒を振り挙げた。
和尚さんは、まあまあと手で制しながら、頭[こうべ]を垂れた。
「わしに免じて、河童を殺すのを止めてくだされ。
これ、この通りじゃ」
ついで、河童に向かって言った。
「こりゃ、河童。よく聞けよ!
これからは悪いことをしてはいかん。
どこか、遠くの川へ行って暮らせ」
河童は聞いているのかいないのか、
とにかく命を助けてもらったので、うれしそうに淵に潜ると
すぐに姿を消した。
村人は、
「あああ、和尚さんのおっしゃることだで、仕方ないわい」
「庫裏[くり]で、ご馳走になるとしようか」
夜更けまで酒を飲んだり唄を歌ったりして、
賑やかに村人の宴は続いた。
夜更けになった。
和尚がうとうとしながら、
“今日は、河童の命を助けてやって、よいことをした。”
と、眠りかけたとき、雨戸がとんとん、とんとんと鳴る。
“おかしいな、風も吹かないが・・・。“
眠ろうとすると、また叩く音がする。
「誰じゃ!」
戸を開けると、庭の片隅に、
白髪の老人がしょんぼりとたたずんでいた。
・・・「こんな夜更けにすみません。
今日、命を助けて戴いた河童です」
「河童が何しに来たのじゃ?」
「お礼に、この瓶を持って参りました。どうぞお収めください」
和尚は内心では、
“ふうん、動物といえども気持ちがあるもんじゃな。”
と、感心しながら受け取った。
瓶を渡すと、河童は煙のように消え、
瓶だけが和尚の手に残った。
瓶を床の間に飾って、眠りについた。
しばらくすると、和尚は、
どこかからチョロチョロ、チョロチョロ、サラサラ、サラサラと
川の流れるような音がすることに気付いた。
・・・おや? 瓶の中から音がするぞ。
耳をつけて聞くと、大きく聞こえる。
“はてさて、これは河童が泳いでいる音かもしれん!”
和尚は、みなの者にこれを聞かせてやろう、
と檀家衆に知らせたので、近在の評判になった。
・・・あの瓶の中で、河童が泳いでいるそうだ!
この瓶は、栖足寺の「河童の瓶」として、有名になった。
そういう話です。
(稲葉さんのコメント:栖足寺は、この瓶を寺宝として、
大切に保存していますが、
「今はね、300円でこの音を聞くことが出来ます。アハハ」
と、くったくなく朗らかに笑った。)
稲葉さんは、河津の民話を明治6年(1874年)生まれの
祖母から、寝しなに聞いて覚えたという。
おばあさんは、目に一丁字もない文盲であったが、
記憶力抜群の上に、一を聞いて十を悟るような聡明な女性だった。
昔話も軽く100話は覚えていたという。
翌日の昼前、栖足寺(鎌倉時代、元応元年1319年、
覚昭の創建した寺と伝わっている)の瓶を見るために寺院に赴いた。
“瓶の中からせせらぎが聞こえるなんて、本当かしら?
善は急げ!”
スーは、好奇心にわが心をゆすぶられると、
千里の道も遠しとしない。 すぐに出かけた。
JR河津駅から、徒歩10分。
2月ならば、美しいピンク色の緋寒桜が咲き揃う河津川べりを
少し歩いて、大きな橋を渡ると、
数分で寺院の正面に出る。
臨在宗建長寺派の寺格の高い栖足寺は、
うっそうとした森を背にしいんとたたずんでいた。
寺院の門前脇には、台座に乗った河童の夫婦の像が、
のんびりと秋の柔らかな光を浴びていた。
(作者:安藤士〈たけし〉氏、
忠犬ハチ公の作家として有名)
住職は、広い本堂の片隅の畳に寝そべって、
ストレッチ体操をしていた。
来意を告げ、瓶にまつわる話を伺った。
やおら立ち上がると、
「普通はお見せしないのですが、ちょうど出していましてね」
と、言いながら、奥の部屋から瓶を運んでくれた。
試しに持とうとしたが、
うわっ重い・・・
女性の力では、両手に抱えてもふらっとする。
古瀬戸風の黒褐色の瓶である。
住職「この瓶には、名前があるんですよ」
スーは、膝に乗せた瓶を少し斜めにずらして、底をみる。
そうか、瓶の名は、“祖母懐[そぼかい]”。
作者の名だろうか“加藤四郎左衛門”
(初代、藤四郎のことという)という風にも読めた。
この人は、瀬戸焼の陶祖で、道元禅師の弟子になりすまして、
陶法を修得するために宗に留学した。うんぬん・・・
住職の解釈では、瓶は何等かの縁があって、
当寺に寄贈されたものではなかろうか、という。
瓶に耳をくっつけて、中の音を聞く。
微かにさらさらと、せせらぎの音がした。
本当にかすかだが微音が確かに聞こえた。
・・・そのとき、遠くで電車が通り過ぎる爆音が響いた。
もう一度試したが、もう決して聞こえなかった。
スー「あれっ、耳が悪くなったのかな?」
住職「聞こえないこともあるんですよ」
礼を述べて、寺院を辞去した。
寺に近い河津川堤は、ちょっとやそっとの台風には
ビクともしないコンクリートの堤である。
機能性、効率性一点張りで、
誰が見ても河童が棲めるような河ではない。
夢の中におでましになるようなロマンに彩られた河童、
なぜそういう河童の民話がこの付近にあるのか、
あまりの落差にぼうぜんとした。
住職や町の住民の話を総合すると、やはり訳があったのですね。
・・・昭和33年9月、伊豆半島と関東地方に
大きな被害をもたらした狩野川台風(台風22号)は、
記録的な雨台風であった。
天城山に発する狩野川は湯が島方面に北上するが、
河津町へ抜けるのが河津川である。
特に狩野川流域では、大規模な水害が発生し、
死者や行方不明者は1269名にものぼった。
河津川も増水し、近隣の人々はこぞって栖足寺に避難した。
寺の「裏門」と呼ばれ、昔からあった淵は、
往時には、うっそうとした竹薮や柳が生い茂り、
木々を写す水面はよどんで、
いかにも河童が棲んで居そうな所だった。
中学生にもなると、夏は学校から帰れば
毎日のように泳ぎに行く、格好の遊び場所だった。
狩野川台風後、この裏門が跡形もなくなってしまった。
淵は埋められ、河津川はコンクリートの堤に改修されたからである。
裏門でよく泳いだという住職は、
「河津川もね、薄っぺらな川になったんです」
と、一瞬、遠くをみるような目をしたのが、印象的だった。