「琴路」哀話

(山梨県、奈良田)

●奈良田のこと

ある夏の日、山梨県の地図を何気なく見ていた時、南アルプス山中の陸の孤島のような奈良田に目が吸いついた。
“こんな山の中でどういう暮しがあるのだろう?
民話の宝庫かもしれない!”

ナルホド遠かったけどね、語り部の深沢文江さんを紹介して頂いたので、善は急げと旅立った。東京から甲府に出て、 甲府→身延(JR特急)1時間弱、身延→奈良田(バス1時間43分)
東京を9:00に出発して、奈良田着は、13:19になっていた。

終点の奈良田バス停前には、人造湖の奈良田ダム湖が広がっていた。
昭和31年に完成したので、50年にもなる今、かなり土砂が埋まっている。台風の影響とか。
奈良田は、南アルプス連峰の3000m級の山々に囲まれた集落である。
バスを降りると、人造湖を囲むように、険しい山々がきつい角度で重なっていた。
“ほう、圧倒的な山国だ。”

ダム(奈良田湖)
ダム(奈良田湖)

バス停の小屋には、山男スタイルの屈強な大学生達が、身延行きの下山バスを待ちながら、輪になって雑談していた。他の客はいない。
ここは、南アルプス入口の拠点なのだ。

奈良田の人口は今や59人。高齢化は約47%という(早川町役場談)
奈良田は早川町に属するが、早川町は、東西16km、南北38kmの細長い町で、奈良田集落は、そのどん詰まりにある。
早川町は、交流のある品川区の16倍という広大な地域だ。

このダムによって、集落全体が山へ山へと高いところに移転した。村の形状ばかりでなく、村人の生活手段も変貌した。
つまりダムの完成によって、日本国内に3箇所あった伝統的な焼畑農耕の一つが、昭和30年(1955年)頃を最後として終息し、若者は賃金労働者となって村を出た。
この年を境に、焼き畑農業と冬の副業としていた曲げ物づくりは終焉を迎えた。(注:他の焼畑地とは、宮崎県の五家荘と徳島県の祖谷村)

さて、
人っ子一人居ない、ゴーストタウンのような村を深沢家を尋ねて歩く。
物音や人声の聞こえない、し~んとした家並が続く。
ようやく・・・にこにこしながら、出迎えてくれた深沢さんがお話してくれたのは、次のような昔話だった。

初冬の奈良田を遠望する
初冬の奈良田を遠望する
写真提供:早川町教育委員会

昔むかし、この奈良田に、
うんと腕のいい曲物[まげもの]の吾平ツ、職人がいたろっち。
冬になれば、ここから下の早川町、大島などに
曲物を売り歩いたり、修理するものないか、と尋ね歩いた。
昔は弁当箱も曲物だった。

(目で追う容易さを考えて、
次からは会話のみ必要に応じて、注を入れます。)

語る深沢文江さん
語る深沢文江さん

行き付けの宿が、保村という所にあって、
そこから吾平は商いに出かけていた。
その常宿には、母親と娘っきり。
うんときれいな琴路という娘と、
いつの間にか吾平は恋仲になって、離れ難くなっていった。

夏になれば、奈良田は焼畑を作ったりするが、
冬になればまた、来ると約束して、吾平は帰っていった。

どうしてか、その年には吾平は帰ってこなかった。

その頃、吾平には、一人息子ということもあって、
親類の娘と縁談が持ち上がっていた。
村には、他郷の娘とは結婚出来ない定めがあった。
特に、他郷を渡り歩く吾平は、村人の注目の的になっていた。

琴路は、吾平がいつ戻って来るか、首を長くして待っていた。
いつまで経っても姿を見せない恋人に、
もはや我慢出来なくなった。
吾平の顔を見たい。会いたい!

ついに、会いに行こう、と決心した。

たった一人で、五里の山道を越えて、
奈良田の吾平に会いに行った。
真夜中、ろうそくを二本、頭に立てて、足元を見ながら歩く。
その姿には、鬼気迫るものがあった。

雨の日も風の日も、一日も休まずに
琴路は峠を歩き通して、恋人に会いに行った。

次第に村人の口の端に上るようになった。
吾平の家では、きびしく息子に言い渡した。

「これ以上、その娘を家に入れては世間体が悪い。
たったいま、娘と別れろ」

吾平は困った。

“どうしたら、いいかなあ(どうしたら、いいろ。)

と、思い悩んだ。

・・・琴路は、通い路の湯島峠の崖に渡した
丸木橋を渡って、ここにくるはずだ。

そう思うと、意を決した。
恐ろしい覚悟だった。

のこぎりを懐にして、丸木橋に向かい、下から3分の1を切った。
これで橋は崩れるはずだ!

急いで家に引き返すと、遺書を書いた。
自分を慕って通いつめてくる恋人の心根を思い、
今夜彼女の上に間違いなく降り掛かる辛酷な運命を思うと、
気がおかしくなりそうだった。

そのまま家を飛び出すと、
「西のはば」という断崖から、早川に身を投げた。

文江さん「今はたいらになっているが、昔は断崖だったの」)

吾平は、遺書に書いた。

“他郷の者と結婚させないという規則は、
どう考えてもおかしい。
この世で添えないならば、
あの世で琴路さんと一緒になりたい。”

そんなことをつゆ知らぬ琴路は、
いつものように丸木橋を渡り始めた。
ギシッ、嫌な音がした。
次の瞬間、丸木橋はまっぷたつに折れ、
琴路は谷川に転げ落ちた。
19の、花の命は断たれた。

二人が亡くなった場所は離れていたが、
不思議なことに、遺体は同じところに並んで上がってきた。
村人は、“あの世で添い遂げたろ。”と、話した。

吾平の遺書によって、その後、
奈良田では他郷の者と結婚してもよい、
ということになった。

早川町役場資料「今でもその峠を琴路峠と呼んで、早川の川原には塔が立ち、誰が供えるのか、供養の花が供えられている」)

これで、ひっちまい

スーちゃんのコメント



【語り部】 深沢文江さん(大正13年2月生まれ)
【取材日】 2005年9月2日
【場 所】 奈良田の自宅
【取 材】 藤井和子

文江さんは、「祖父は、私が7つの時には、
もう居りませんでした」
と言う。
この話は、6年生の頃、お父上から聞いたが、
母親から昔話を聞いた記憶はない。

スーは1対1で対座して、昔、文江さんが子どもの頃に、
自然に覚えたままを聞かせて頂いた。
孫娘に聞かせるような語りは、二人で昔話の世界に遊ぶようで、
実に楽しかった。

奈良田は、天平期の孝謙天皇(第56代女帝、749-758年、
地元では今も奈良王様と呼んでいる。)
が、
8年も湯治療養して快癒したという古い集落である。

・・・かつて、この歴史有る集落には、
村人をがんじがらめに縛った規則があった。
本篇のように、他郷の者と結婚も出来ない村の掟である。
怪異な姿・かたちに化けて「ヒューどろどろん!」
出て来る化物や幽霊ではない。
むろん「妖怪」の定義にもよるが、これも一種の妖怪に違いなかろう。
スーはそう思う。
文江さんは、「私が少女の頃<戦前の昭和12,3年頃>、
血族結婚の公の調査が入り、
鼻の幅なんか顔のあちこちを測られたのよ」
と、
笑いながら話した。

奈良田の閉鎖性は、交通手段が普及するまで、続いた。
昔は徒歩しかなくて、徒歩で峠越えをした。
山また山、山並の続く、あまり恵まれない地理的条件の中で、
食物など生活の糧は、自給自足でまかなうしかなかった。
水稲栽培を試みたが、日照時間が短い、水温が低いなどで、
稲は育たず、焼畑式農業で、
主食の雑穀(粟・ヒエ・ソバや、豆類)を収穫した。
一年目に粟・ヒエ・ソバを二年目に豆類を植えて、
輪作する方式である。
詳細は省くが、山を焼いて灰を肥料とする農業方式は、
15年を一区切りとした。
焼く場所や植え付けるものは、正確に決まっていた。

毎年6月に入ると、焼畑の農作業が始まり、
山に設営した「山小屋」に寝泊まりする。
一家をあげて、ここで1週間から10日間を過ごした。

焼畑の山小屋の入り口(奈良田民俗資料館)
焼畑の山小屋の入り口(奈良田民俗資料館)

子ども達にとっては、“小屋祝い”で、
隣近所の山小屋から配られる、カボチャの葉に包んだ
大ぶりのぼた餅(キビ餅)が楽しみだったし、
母親が「山小屋」で作ってくれるヨモギや桑の葉のてんぷらは、
うれしい味だった。
夜は、灯火[ともしび]のともる静かな山小屋で「昔話」が語られた。
文江さんが民話を覚えたのは、そういう環境下であった。