猫の恩返し
昔昔、母親と息子と二人暮らしていたそうな。
一匹のネコを飼っていたのですが、
仕事から戻ってくると
母親がカンカンに怒っています。
「お母さん、何でそんなに怒っておるの?」
「お前のネコは、魚を盗ったけん、
目をつぶして追い出してやろうと思うとった。
じゃけん(だから)、早うそのネコ、捕まえてくれ」
プリプリ怒っている母親をなだめ、
ネコに代わって詫びたのです。
翌日、仕事から帰ったとき、
ネコの名を呼んでもその日は姿を見せませんでした。
母親はこんな恐ろしいことを言いました。
「今日も魚を盗ってな、
ハラがたったからネコの目をつぶして、追い出してやった!」
「ええっ、そんな」
息子は絶句して、
ネコの名を呼びながら外に飛び出しました。
いくら呼んでも返事をしない自分のかわいいネコ。
片目でどこへいったやら。
息子はネコをたずねて旅に出ることにしました。
ネコを探し探しさまよううちに日はとっぷりと暮れ、
宿さえありません。
はるか彼方に、
おお!ありがたや、
ポツンと灯りのついた暗い家影が見えました。
「今晩は、今晩は。一晩泊めてください」
と、懸命に戸を叩きました。
すると奥から、お母さんかおばあさんのような風体の女の人が、
面倒臭そうに出てきました。
「何のお構いも出来ませんが、一晩でしたら、どうぞ」
しばらくすると、
その人の娘らしい人が戻ってきました。
「お客さんが出来たけ、早ようてご(手伝って)をしてくれえや」
と年かさの女の人。
また、しばらくすると、
二人目の娘が帰ってきました。
「おう、おう。お客さんがあるけ、おまえもてごをしてくれえや」
間もなく三人目の娘が戻ってきたようです。
この人は特にきれいな娘でした。
「お母さん、お客さんがあるそうで」
「おうおう、早う上がって、てごをしてくれえや」
息子は夕御飯を頂いて、寝床にやすんでいました。
そしたらね、真夜中頃、
コトコト、コトコトと音がしました。
(昔話の音は必ず4回です。口で言う言葉のリズムのせいでしょうか)
“不思議だな、こんな真夜中に”
と、目が冴えて眠れません。
母親と三人の娘達が、ペタペタ、ペタペタと
何かなめるような音を立てながら、話をしています。
一番後から、戻ってきた娘が突然、
部屋に入ってきました。
息子にすぐ目隠しをして、
「旅人さん、早く私の背中にさばって(乗って)ください」
と、命じました。
息子を背中におんぶしたまま、外に連れ出しました。
ずいぶん歩いたと思う頃、
息子をぱっと背中から降ろして言いました。
「実は、私はお宅に飼われていたネコマタです。
あの家にいるのですが・・・」
驚いたことに、
あそこに居ては命が危ない、
と話しました。
柳下さんは、最後に付け加えました。
・・・ネコはね、3日すりゃ恩を忘れるというが、
それは嘘ですよ。
(昭和8年<1933年>3月16日生まれ)
同席:道下春美氏
柳原さんの母上は、ヒサコさんが15歳で亡くなり、
祖父母に育てられた。
この話は、祖母から聞いたという。
年端も行かぬ頃、寝しなに聞き覚えた昔話は、
自然な方言も含めて生き生きと活写され、貴重である。
波積町で生まれ育った、生え抜きの二人の方言は、
流れるような関西弁だった。
他所での生活体験がない人、
このように全く無い人の話しことばを
何とか残せないものだろうか。
例えば、“音の方言ライブラリー”でも設営して、
資料として残すことを提案したい。
混じり気の無い、純粋な方言を話せる人材が、
この世に揃っている間に、である。
かって壷井栄さんと1962,3年頃、お話したとき、
「私が島にいたときには、“~じゃ”という語尾を多用したが、
今はどうも使っていないような気がする。どうですか?」
とたずねられた。
たしかに、60年代でさえ“~じゃ”を余り聞かなかった。
今となれば、使うのは、
すごい年寄りだけである。
代表作「二十四の瞳」
(講談社刊、青い鳥文庫所収。編集担当はスーちゃんに
方言を確かめに来たもんね。(合)です)
を読めば、“~じゃ”も多く、会話は、全編、
出身地の内海町[うちのみ]坂手方言でしっかり話されている。
中には、今は使っていない方言、
若い人には分かりにくい方言も散見する。
方言は生きている、それ故に変貌もする。
しかし、その精致なニュアンスに思わずニッと笑うことは多く、
多様な心のアヤを言い尽くしてくれる。