蟹淵の主

(島根県隠岐郡隠岐の島町)

島根県の離れ島、隠岐のいくつかの島のうちで、
一番大きな島を島後[どうご]といいます。
この島の北部、中村に元屋[がんや]地区があって、
ここをを流れる安長川の上流に安長[やすなが]の谷があり、
そのまた奥に、昼でも暗い蟹淵があります。
そのあたりの杉材は良質で有名です。

この話は、淵付近の杉を切りるために、
森に入った年老いた木こりが遭遇した物語です。

隠岐、西郷港の全景
隠岐、西郷港の全景

元屋の長者に美しい娘がおりました。
年頃になると、
どこからでも縁談の声がかかり、
降るほど縁談が舞い込んできた、幸せなお嬢さんでした。

なかなか頭を縦に振らなかったのですが、
ようやく西隣の五箇村の若者との間に縁談が整ったのです。

ある日、

“五箇村へ行って来ます”

と言い置いて出かけたまま、
再び戻って来ることはありませんでした。

“ああ、あの娘さんも神隠しにあったのだろう”

と、みんながしばらく噂をしていましたが、
そのこともいつの間にか忘れられた形になっていました。

その日、元屋の木こりはよい杉の木を目指して、
安長の山深く分け入りました。

事が起ったのは、
小さいが黒ぐろと淀んだ深い淵のそばで
仕事をしていた時でした。
手だれの爺さんでしたが、どうしたことか、
あっという間に、斧が手から滑り落ち、淵に消えました。

“これはまあ、大ごとしたわい”

と、凍りつく気持ちで不気味な淵を見つめました。

・・・と、水の中から、
ぶくぶく、ぶくぶくと泡が沸き上がってきて、
大きな蟹の爪が一つ、浮き上がって来たのです。

気味が悪くて、

“こんな恐ろしい所から逃げよう”

と、きびすを返しかけた時に、
後ろから涼やかな若い娘の声が呼び止めました。

「爺さん、ちょっと待ってござっしゃいな(待ってくださいな)

淵の水面に、何とも言えないほどきれいな娘が、
すっくと立って話しかけてきたのです。
爺さんは、

“これあ、ま、どげしたことか(どうしたことか)

と訳が分かりません。

「ちょっと、こっちへ寄ってごせ(こちらに寄ってくださいな)

爺さんは、我知らず、
す~っと側に寄って行きました。

「わしはこの淵の主じゃ。
ここにはガイな蟹が住んじょって、
わしはその蟹に、
夜な夜な虐められ苦しめられて暮らしてきた。
さっきお前の落とした斧で、片方の爪が切れたによって、
今はあの滝の落ちるところで、
痛さにのたうっちょるけん、
頼むけに・・・」

(自分はこの淵の主だ。ここには、大きくて凶悪な蟹が住んでいる。
毎晩のように蟹に虐められ苦しんできた。
爺さんの落とした斧で、片爪が切れたので、
今、あの滝の落ちるあたりで、痛さにのたうっている。お願いだから・・・)

娘は自分がさっき滑り落とした
斧を捧げ持つようにして立っています。

何と不思議な話だろう、

と、爺さんは半信半疑、腑に落ちないまま、
娘の差し出す斧が自分のものであることを見て、
頼みに耳を傾ける気になったのでした。

・・・娘は、滝の下に蟹がいる、あそこを狙ってもう一度、
斧を打ち込んでくれ、

と頼みました。

島後の牛突き
島後の牛突き
(提供:隠岐島後観光協会)

爺さんが滝の方をめがけて、
はっしと斧を投げた途端、
煮えくり返るような泡が立ち、
水が沸き上がってきて、
苔の生えた大きな蟹の爪が
浮き上がって来ました。

娘は、

「ああ、これでわしは安心したけん、
安気[あんき]に暮らすことが出来る」

と、大喜び。
斧を戻しながら、巻物を手渡しました。

「困り事が出来たら、開いてみよ。
解決出来ることが書いてあるけん」

それは、娘の感謝の印の巻物でした。

爺さんは、娘を伏し拝みながら、
うやうやしく巻物を受け取って淵を去りました。

それから、数日して大水が出たときに、
安長川の河口に差し渡し3mもある
爪を無くした大きな化け蟹の死骸が流れ着きました。

爺さんがはさみを切った蟹に違いないと村人は噂しました。
その時から山奥の淵のことを
蟹淵と呼ぶようになりました。

ひでりの時には、
蟹淵へ行って雨乞いをすれば雨が降ったし、
けんかやモメ事が起こっても、
巻物を開くと解決出来る善いことが書いてあったそうです。

村は静かで平和になり、
爺さんの家は、なぜか暮し向きがよくなり、
子孫も、代々金持ちになって、
恩恵にあずかったということです。

とん

スーちゃんのコメント



【語り手】 藤野ミヨコ氏
(昭和10年<1935年>5月10日生まれ)
【取材日】 2004年10月3日
【場 所】 隠岐郡、隠岐の島町教育委員会、
同席は小室賢治氏(教育委員会)
【取 材】 藤井和子

藤野さんは結婚して、
昭和34年(1959)から元屋に住んでいる。
45年前の安長川上流の蟹淵は、
小さな淵とはいえ深く淀んで、何メ-トルかの滝もあった。

平成元年7月、とても暑い日だった。
藤野さんは何人かの保育所の同僚と、
酒井先生を蟹淵に案内した。
先頭の藤野さんは鎌で草を薙[な]いで進み、
みんなはマムシよけの竹の棒を振り回して森に入った。
とにかくすごい所だった。

当時は、安長の森の杉材を積み出す
手段としては、そりを使っていた。
開発が進む前ののどかな森であった。
暗く淀んだ蟹淵も、何百年も続く
たたずまいをそのまま残していた。

やがて日本列島改造の時代に入ると、
蟹淵ふきんもご他聞に漏れず、作業道や林道がついた。
蟹淵にも砂防が出来、
工事で不要になった大小の岩石、
多量の土砂が容赦なく淵に投げ込まれた。
淵の形は残っているものの
浅く小さいものに変容したらしい。

由緒ある伝説の淵であるが、
一銭の銭[ぜに]も生まない蟹淵を壊したところで
何ほどのことがあろう・・・というのが、
経済成長一点張りの当時の
“行け行けパワ-”のより所ではなかったか。

伝説の蟹淵が、工事の進むにつれて
日毎に壊れて行くのを目にすることは、
まるで死にゆく肉親が日々やせ衰えてゆくのを
目にするのに似ていただろう。
どうすることもできない焦り、居ても立ってもいられない、
たまらない気持ちとでも言おうか。
いや、感情を越えた、
自然への深い畏敬の念ではなかったか。

藤野さんはごく控え目に、
「とても残念なことです。
・・・でも淵の形だけは、何とか残っています」

と、ハンカチを握りしめて語り、
目を伏せた。

とん