岳山[だけさん]の化けグモ

(島根県隠岐郡隠岐の島町)
横山寺全景。歩く藤野さんと小室氏。
横山寺全景。歩く藤野さんと小室氏。

隠岐、島後の五箇村にある
岳山の麓[ふもと]に、横山寺があります。
由緒ある古い寺ですが、
化け物が出るという話が噂になって、
かなり前から無人になっていました。

“あそこで泊まった人は、生きては帰らない”

と、村人は話して、
おそろしがっていました。

ある時、通りかかった侍が、
日もとっぷりと暮れて、
この寺に泊まらなければ
どうしようもないことになりました。

ままよ、化物が出たら出た時のこと。

侍は自分に言い聞かせて、
荒れ寺に一夜の宿を取ることにしました。

やがて、夜も更けたころ、静かに戸を叩く音がしました。
侍が戸を開けると、
うら若い娘が立っていました。
娘は袂から白い箱を取り出して、頼みました。

「これは大事なもの、大切に受け取ってくださいな」

化物が出ることは承知していましたが、
若い娘が来たので警戒心がゆるんだのか、
言われるままに
手で箱を受け取ってしまったのです。

白い箱は、とりもちのように手にひっついて剥すことができない。
侍は焦って両足で箱を蹴って剥そうとしたのですが、
右足がぺったり左足もぺったり、
箱に張り付いたのです。
もはや、侍は箱から逃れることが出来ません。

その時です。

侍を冷やかな目で見ていた娘は、
一瞬のうちに、大きな蜘蛛[クモ]に姿を変えました。
ねばねばする糸を吐き出し吐き出しして、
侍の身体をがんじがらめにからめて、
大きな口でバリバリと食い殺しました。

それから何年か過ぎて、また旅の僧が村にやってきて、
一夜の宿を横山寺に求めました。
みんなは、

「あそこにだけは、泊まらない方がよい。
生きて帰った者はいない」

と、一生懸命に止めたのですが、
僧には、もう行くところがありません。

化け物の話を聞いた上は、そいつをこの目でみたい、
退治したいと好奇心がむくむく沸いて来ました。

やがて、夜もしんしんと更けた頃、
ひそやかに戸を叩く音がしました。
戸の外には、お婆さんがぽつねんと立っていました。

「わしは、目が見えんけん」

と言いながら、
坊さんに白い玉を大事そうに差しだしました。

どことなく普通の婆さんじゃあない。
おかしな感じの婆さんだな。

“そうか、こいつが話に聞いた化けもんだな”

僧が、白い玉を片手で受け取ろうとした時、
目の見えないはずの婆さんが言いました。

「あんた、手はダメじゃけん、足で蹴ってみさっしゃい」

見えないのに、妙なことを言う婆さんだな。

“これは、化け物に違いない”

と、はっきりとそう思いました。
囲炉裏[いろり]まで戻り、白い玉を火にかざしたら、
パチンとはじけて割れました。

クモの白い糸の塊だったのです。

逃げだした婆さんの後を追うと、
走りざまに、後ろから刀で斬りつけました。

朝になって、点々と続く血の跡を辿ると、
どうやら岳山の麓[ふもと]に続いているようでした。
その先の洞穴には、
大きなクモの死骸が横たわっていたそうです。

そんなことがあってから、五箇村の人達は、

“夜のクモは殺せ、朝グモは福の神”

と、聞いているので、
クモが親の姿に見えても、

“オトチコ、セイチコ。オトチコ、セイチコ”

と、唱えながら囲炉裏で焼くようになった。

これは、祖父(母方の祖父、昭和19年に74歳で没)から聞いたという。

この呪文は、“一昨日(おととい、オトチコ)
一昨昨日(さきおととい、セイチコ)
という意味です。

とん
寺の脇の旧道
寺の脇から、わらじ履きで山越えをした旧道。
山道は昼でも暗く、
入口付近の大きく傾いた鳥居。
寺院の山門横の撫で仏
寺院の山門横の撫で仏。
“痛いところを撫でて
お祈りすると治ります”
と、立て札。

スーちゃんのコメント



【語り手】 藤野ミヨコ氏
(昭和10年<1935年>5月10日生まれ)
【取材日】 2004年10月3日
【場 所】 隠岐郡、隠岐の島町教育委員会、
同席は小室賢治氏(教育委員会)
【取 材】 藤井和子

横山寺は、今も無人である。
昔も今も、ここまで来て日が暮れれば、
ここに泊まれないと困るなあ、というロケーションなのである。
付近に人家はなく林だけ。

化け蜘蛛や化けネコを生み出す昔話の格好の場・・・
例えば、多くの神社が大杉に取り巻かれて、
参詣人は、山門から歩いて行くと、
次第、次第に有難く思い始めるように・・・と映る。

スーちゃんは、昔話の現場を踏んで、
昔の人はいい場所を選んだな、
と着眼のうまさに感嘆した。

横山寺は、古くは横尾山寺と呼ばれた
由緒ある寺であった。
柿本人磨呂(7世紀~8世紀初頭の宮廷歌人)
息子のみずらは、皇位継承問題で失脚した
大津王子の側近であったため、
隠岐に配流の身となった。

やがて土地の豪族、比等那の娘、八百姫と恋仲となった。
彼女はみずらの死後は剃髪[ていはつ]して、
八百比丘尼と名乗った。

みずらゆかりの寺が横山寺であった。

夫の遺骨を、母の元に届けるために京都に赴いたが、
隠岐に向かおうとして小浜で舟を待っていた。
若狭に住みついて、もはや、
二度と隠岐に戻ることはなかった。

毎月21日には、
50人ほどの信徒がお参りするという。

[主な資料 山門前の案内版から(教育委員会)]