[あめ]買い幽霊

(長崎市)

その夜も真っ青な顔をした、若い女が
長崎の麹屋[こうじや]町という所にある飴屋の戸を、
静かに叩きました。

「ごめんやす。 飴を、飴を売ってくれはりますか?」

と、か細い声で言って、一文銭を差しだしました。
飴屋は、

“もう6日目の晩にもなりよるが、毎晩来よっと。
こんな夜更けに、どこの女じゃろうか。
とんと元気の無かおなごじゃ。”

と、寝巻の衿をかき合わせながら、飴を一つ売りました。
白い着物を着た女は、
飴を手にするとすっとかき消えました。

翌晩の7晩めも同じように飴を買いにきました。

「すんませんけど、飴を1つ、めぐんでくれはりますか?」

と、手を出しました。
今日はおかねを持っていません。
飴屋は、毎日やってくる女をあわれに思い、
気持ちよく分けてあげました。
女は、小首をかしげて微笑むと外へ出てゆきました。

飴屋は、いったいどこの女かしらと、
そっと後を付けてゆきました。
女は大きな寺が八つも並んでいる寺町通りを、
その寺院を右にみてどんどん歩きます。
寺町筋を抜けて八つめの光源寺の前までやってくると、
本堂横の暗がりに消えました。

光源寺風景
光源寺風景。370年の寺格にふさわしい大銀杏が印象的。

「うわっ、こ、ここは、墓じゃなかね!」

飴屋は、女の青白い、生気の無い顔付きを思い出すと、

「ア、アレにちがいない。ユーレンじゃ!」

と、一人決めしてほうほうの態でうちに逃げて帰りました。

翌日、お寺に出かけて和尚さんと一緒に墓にやって来ました。
新しく土盛のしている墓の中から、

「おぎゃあ、おぎゃあ」

という元気な赤ん坊の泣き声が聞こえました。
男の子が母親の遺骸の側で
飴をしゃぶりながら泣いています。
女は棺に入れて貰った、冥土への6文銭を一文ずつ使って、
毎日のように赤ん坊に飴を買って与えていたのです。

和尚さんは、この墓を建てた、
若い彫刻師の藤原清永を呼びにやりました。
清永とこの若い母親とはどういう関係だったのでしょうか?

延享の昔、それは江戸時代のことでした。
清永は、京都で仏像の彫刻を習っていました。
そのとき知り合ったのが、京都の女性でした。
二人は恋人どうしになったのですが、
国元から“早く帰って来るように!”と、矢のような催促です。
清永は、かならず迎えに来るから、と、
恋人に固く約束して長崎に戻ったのです。

清永が長崎に戻ると、京都の恋人のことは口に出せないまま、
親の決めた婚約者と、結婚してしまいます。

さて、京都の恋人は
男の言葉を信じて一日千秋の思いで待っていましたが、
疑惑の思いは消しても消しても沸き上がります。
江戸時代の女性の一人旅は、命がけです。
険しい山や果ての無い野原、
たちの悪い胡麻の蝿[はえ]や、安達が原の鬼など、
いまでは考えられないほど心細い道行だったに違いありません。

そんな中を150里を歩き続けて旅をして、
長崎に着いたときに待っていたのは、
恋人が自分を裏切ったという事実でした。 

清永に会って、ぎゃあぎゃあ言える人はまだいい、
自分はそんなことは出来ない。
派手なけんかができるなら、胸がすっとするかしらと、
こう思いああも思い、絶望の淵をさまよい続けました。

こんな彼女を思いとどまらせたのは、
裏切られた惨めな自分を、
男を詰問したりしてさらに惨めにしたくない、
という自尊心でした。
今さらドタバタ劇を演じたところで、自分の元に帰って来ない男の心・・・
そんな愚行を京女の誇りが許しませんでした。
精魂つきはてて、日ならずしてはかなくなってしまったのでした。

自分を追って長崎に来た恋人が亡くなったのを知って、
清永は泣きながら光源寺に葬り、手厚く供養したのです。
初七日に当たる日に、
墓からわが子を取り上げた彼は、思いました。

“彼女が身ごもっていたとは知らなかったとはいえ、
自分は何というむごい仕打ちをしたことか。
かわいそうなことをした。”

清永は、亡き恋人の絵姿を一心に彫りました。
その像が光源寺の寺宝となっている「幽霊さま」の女人像です。
ご開帳の時に、顔青ざめて歯を食いしばった、
等身大の幽霊さまを初めて見て、
木像の前で恐がって泣く子もいるそうです。

幽霊女人像
桐の箱に収まった幽霊女人像は、
正式には「産女(うぐめ)の幽霊像」と呼ばれ、ご開帳は毎年8月16日。
箱書きの墨書は、延享5年5月(1748年)とある。
長崎では、幽霊は、“ゆーれん”と呼ばれ、産女(うぐめ)ともいわれる。

さて、一方、飴屋には、それから幾日か経って夜更けに、
またあの幽霊女がやってきたのです。
同じ白い着物をきて
やっと聞き取れる位のかぼそい声でこういうのです。

「あんたはんのお蔭で息子は助けて貰えましたエ、
お礼に何ぞ差し上げとうおすが(差し上げたいのですが)

遠慮せずに何でも言って欲しい、というのです。
飴屋は、しばらく考えて

「うーん、このへん、長崎は水が無かけん、みんな困っとります」

と、言うと、女は、
頭にさした赤い櫛を指さして姿を消しました。

不思議に思った飴屋は、翌朝、「櫛が、櫛が」と呟きながら、
町内をきょろきょろ歩き回りました。

「あったっ!」

幽霊女が挿していた櫛が、
寺町からちょっと下った坂道の尽きる辺りに
落ちているではありませんか。
みんなでそこを掘ると、
手を切るように冷たい水が湧き出していました。

「水が出たぞお、麹屋町に井戸を掘るぞお」。

この井戸はどんな干ばつの年でも渇れることはなく、
町内の人々の喉を潤しました。
やがて人々は「幽霊井戸」と呼ぶようになりました。

幽霊井戸
現在、幽霊井戸は埋められて、井戸の壁が残存。
麹屋町の泉屋氏(ゴルフ用品店)の軒先横。
供えられた一握りの塩は毎日取り替えられている。

スーちゃんのコメント



【取 材】 越中哲也氏、楠 達也氏、
泉屋郁夫氏夫人
【取材日】 2000年5月12日
【場 所】 光源寺(伊良林)、麹屋町
京言葉チェック 外川公子さん
(京都弁を母国語とする生粋の京女、
大学のクラスメート)

この話は元長崎純心短大教授の越中哲也氏に伺った。
越中氏は光源寺(浄土真宗本願寺派)出身で、
現住職の楠達也さんの兄上に当たる。

越中哲也氏
長崎随一の郷土史家、越中哲也氏

「飴買い幽霊」は、まさに全国区の有名な話である。
幽霊になってまでも、
我が子を育てる母親の気持ちを描いた民話で、
様々の地方で同じ筋の昔話を聞いた。
煩雑になるので、語り部の名前をいちいち挙げることは
残念であるが、割愛させて頂く。

長崎の本編は、「幽霊さま」と題のついた
木彫りの彫刻物があることで、
他の地方では話はあるものの、拝む対象はない。
清永が実在したかどうかよりも、
木彫りの作品が残っていることに興味を持った。

長崎に来て山側に登り夜景を望むと、
瞬くネオンが大都会の底に沈み、
さまざまの光が交錯し合って、息を呑むほど美しい。
ただし、この「坂の長崎」と呼ばれる都市は、
平坦な耕地に乏しく水も少ないので、
米が取れないという土地柄でもある。

越中氏は、

「飴は米で作りますが、長崎は田んぼが少ないので、
米は貴重品だったのです。
米は(福岡県の)柳川によく出来るので、
飴は柳川で作ったものでした。
昔は赤ん坊が生まれると、“産見舞い”に飴を持参したのです。
全国的に、飴は乳の出をよくするといわれていましたね。
このことと、光源寺の幽霊が
飴で乳呑み子を育てていた話とを結びつけたと思います」。

そんなことから昔、柳川から移ってきた光源寺では、
旧暦7月16日(8月16日)に来る参詣人に、
米でこしらえた飴を配っている。
幽霊さまの像にも、供えているという。

幽霊さまの像は、江戸時代からずっと寺院の奥深く
眠ったままになっていたが、

「明治になって開帳したのですがね」

と、越中氏。

「その時、光源寺の幽霊さまは長崎中の大評判となり、
幽霊見たさに見物人が押し寄せて、
けが人が出たので、警察から
“幽霊の木像は、一切出したらいかん。”
大目玉を喰って、蔵にしまい込まれたままだったのです」

現住職達也さんの判断で、
戦後だいぶ経って、8月16日に開帳され始めたという。

楠達也住職
光源寺第16代住職、楠 達也氏

なお、取材当時にはなかったが、
現在“母子の絆”“親子の愛情”を目にみえる形として、
その心を喚起する一助にと
平成14年8月16日、建立された碑がある。
楠住職は仏教の立場から今の世に
“母子のあるべき姿”を訴えたい、と力説している。

赤子塚の民話の碑
赤子塚の民話の碑
(写真提供:光源寺)