東向寺の地蔵様

(長崎県、島原市有明町)

次の民話は、語り部の森昭子さんが、禅宗、東向寺[とうこうじ]出身の夫君、森篤之氏から聞いたもので、この寺院に昔から伝わる話です。

昔、今の東向寺が建立される前の、鎌倉中期頃の話である。

このあたりは、松林の茂る河口と入江のある
素晴らしい景勝地だった。
それに包まれるように、小さな地蔵堂があり、
その中には、5体のお地蔵様がまつられていた。

村人は、貧しいながらもこの5体のお地蔵様を心の支えにして、
信心深く暮らしていた。

森昭子さん
森昭子さん

ところがある時、
誰も知らないうちに、山賊がこのお堂に住みついた。
朝は暗いうちに、どこへともなく消えて行き、
夜も暗闇に紛れてこっそり戻って来るという日々が続いていた。

荒稼ぎに精を出していたのですね。

何も知らない村人は、その年も地蔵祭りの日になったので、
まんじゅうやさまざまのお供え物をして、
祭を取り行った。

あくる日、地蔵堂にやってきた村人はびっくり仰天、

「あれっ、まんじゅうが一つも無いぞ
(お供えしたまんじゅうがなか!)
お地蔵さんがまんじゅうを食っている
(お地蔵さんのまんじゅうバ、食うちょらす。)

村人は喜んで、次の日もその次の日も、
お好きなまんじゅうをお供えして、お参りをしていた。

ところが、村の若い男が、

“他のお供えは一つも食わないで、
なぜまんじゅうばかり 食うのだろうか。
どうもヘンだな
(ほかんお供えは、いっちょん食わんとに、なしまんじゅうばっか、
食わすとやろか、どうもおかしか。)

村人が帰ったあとで、この男は、
こっそりお堂の床下に忍び込み、
いったい何が起こるのだろう、とじっと隠れていた。

そんなことを少しも知らないで、
山賊達はこの日も、夜遅く戻ってきた。
新しく供えられたまんじゅうを見ると、親分がいつになく
神妙な顔をして言った。

「おい、おい、みんな。
おれ達はこのお堂に世話になっている上に、
こんな旨いまんじゅうを食わせて貰っている。
ここらで、なにかお礼をしなくちゃいかん。
どのようにしたらいいかな
(こがん旨かまんじゅうを食わして貰うチ、
ここらで何か礼バ、せにゃならんバイ、
バッテン、どがんしたら良かろか。)

泥棒にも3分の徳があるというが、子分達も賛成した。

「バッテン、お礼に何がよかろうかの」

ガヤガヤ相談していると、地蔵さまの声が聞こえた。

「お金じゃ、お金がほしい」

山賊達は、口を利いた地蔵にびっくりした。

「へえっ!」

それでも貫禄を見せて、親分が尋ねた。

「い、いかほど差し上げたらよろしかろう?」

地蔵はすまして言った。

「千両ほど、のう」

親分「えっ、そ、そんな大金は、ありまっしぇん」

地蔵「何を申す。わしの床下に隠しておろうが。
その千両を置いて行け。
置いて行かねば大罰を与えるぞ、いいかっ」

恐れおののいた山賊達は、千両箱をお地蔵さまの前に置くと、
一目散に逃げて行った。

その声は、若者の声だったらしい(声じゃったぎな)
お地蔵さまの声を真似た若者の機転と、お地蔵さまのご縁で、
大金を戴いた村の人達は、
ずっと幸せに暮らしたということじゃ。

森さんのコメント:このお地蔵さまは、過去何回となく大水害に見舞われたが、不思議なことに、その度に川底から見つけ出されたのです。
今も東向寺の観音堂前の右脇に、当時の話を語りかけるようなお姿で、ニコニコと立って居られます。)

東向寺の石仏地蔵像
東向寺の石仏地蔵像

スーちゃんのコメント



【語り部】 森昭子[てるこ]さん(昭和12年12月生まれ)
【取材日】 2000年5月11日
【場 所】 有明町総合文化会館
【同 席】 有明童話の会“くすのき”の有志の方々
コーディネーター 梅林次生氏(当時:島原市立図書館長)
【取 材】 藤井和子

本篇の地蔵は、民話によく出て来る地下の国とか、
水底の別世界に住む異界の地蔵の話ではない。
「今も東向寺の観音堂前の
右脇に立っている」
普通の地蔵である。

森さんは言う。

「昭和32年の大水害の時も、
東向寺にあった大きな楠が横倒しになって、
そのお陰で水の流れが変わり、村が助かったと言われています」

「今も誰方かは分かりませんが、
地蔵さまによだれ掛を掛けています」

1957年(昭和32年)の大水害
1957年(昭和32年)の大水害
一面の湖となった有明町の田圃
写真提供:島原市

このような地蔵を信仰する実態を見聞きすると、
民衆の中で地蔵が、多様な姿を現し点滅しはじめる。
・・・子安地蔵であったり、延命や身代り地蔵であったり、
縛られ地蔵であったり。

民間信仰として、地蔵信仰からは、
現世利得的な救済や願いを地蔵に託す、
連綿と続く庶民の息吹きが聞こえてくる。
それが、な、なんと、平安時代に起源を持っていたのです!

地方では、辻や墓地の入口、池の縁に立っている
地蔵の姿は、普通に見られるものだ。
右手に錫杖、左手には宝珠という姿が、
中世以来からの定型として。

地蔵は、平安時代中期~末期にかけて、中国から渡来した。
外来の渡来仏が、広く民衆に
スムースに受け入れられた素地があったのだろうか?

答えは、あったのです!

当時は末法思想が蔓延し、無仏の時代と言われた。
そのさい、民衆(衆生)の側に立って、
庶民を救い教化する役回りを担ったのが地蔵であった。

例えば、地蔵は地獄で土壇場に現れて、
閻魔[えんま]から地獄に落ちた人々を助けてくれる
と考えられていた。
焦熱地獄を歩かされる罪人の代わりに歩き、
地蔵の足が焼けただれていた。
また、子どもの守神として小僧の姿に化けて、善行を施した。

例えば、子の無い老女は、
常日頃からいつも地蔵に食物をお供えしお参りしていたが、
田植えが出来ない。
彼女に代わって、田植えをしたという
「泥足地蔵(土付き地蔵)の話がある。

今なお、子どもの出来ない夫婦が、地蔵に願を掛けて子宝を得、
子安地蔵を寄進したという話も聞いた。

また、「縛られ地蔵」(東京葛飾区)は、
願掛け時に、身体に縄を掛けられる地蔵であるが、
願が成就すると縄を切るならわしだ。
もう200年以上続いている。
縄を全て取り払うのは、大晦日の僅かの時間だけで、
新年を迎えると、一番縄を張ろうと、大変な混雑らしい。
(読売新聞、2007年2月21日)

今に生きる地蔵信仰の中身は、
地蔵に献身をもとめ、現世利得的な施しを願うというものである。

かつて、東大和市の郷土史グループが5体の地蔵、
路傍にいつからかひっそりと立っている地蔵を
調査したことがあった。
(「東大和市の地蔵僧信仰」
東大和市教育委員会刊、昭和59年)

中には、無人の庭の廃品の山に、
無造作に置かれていた地蔵1体すらあった。
ほかの地蔵も、お供えがよく上がる地蔵(子育て、いぼ、
病気平癒など)
でも、一体誰がお参りにくるのか、
信者(?)についての聞き取り調査の折り、相手が
不特定多数では、“雲をつかむような状態”で、
困難を極めたという。
通りすがりの人々が拝んで行くだけ?
という悲観論も出たりした。

一応の成果を小冊子に出来たことは、
靴底を減らした努力の賜と思う。
心から敬服したい。

地蔵信仰は、庶民の有るがままの息吹きを描くものであるが、
記録に残りにくいものの一つである。
「地蔵信仰」を考えるとき、残っている地蔵の現状を
把握することは、 織物に例えれば縦糸であり、
民話や口承伝承は、
横糸のように、「地蔵信仰」を彩なして紡いでいる。