千代万代[せんだいまんだい]
島原半島のことは、「味噌五郎」を参照されたい。
元禄13年(1701年)の秋、上納米の石高を決めるために
島原藩の役人がどやどやとやってきた。
この作柄調査には、村の庄屋が立会い、
村の世話役12人も
威儀を正して並んでいた。
稲の作柄は、この年ばかりかもう3年越しの冷害で不作であり、
農民は雑穀はむろん、木の皮や雑草まで
食べられるものは何でも腹におさめて、
どうにかこうにか生きていた。
世話役達は、飢えをしのぐために知恵を出し合って、
あらかじめ刈り取った稲のごく一部を山蔭になっている、
どこからも見えない田(今でも隠れ田と呼ぶ)に、
そっとかくまっていた。
この検分の日、この日一日を無事に乗り越えれば、
と世話役達は祈るような気持ちで役人に応対していた。
役人達が
「どうもおかしい。稲の量目が少ないようだ」
と言うのを耳にして、生きた心地はしなかった。
「お上をだましたらどうなるか、覚悟しろ」
と恐ろしい顔でにらみつけた。
だんだん疑いを深めた役人達は、村中の
田圃[たんぼ]という田圃を
しらみつぶしに調べ回って、
ついに山蔭の稲を見つけてしまった。
ぶるぶる震えながら、一目散に逃げだした世話役達だったが、
やがて12人とも追手に捉えられ、縄をかけられてしまった。
“水分[みずわき]の辻”という所で、
即刻、恐ろしい処刑が行われた。
刀が一閃するたびに地上に転がる首。
胴体から離れた生首のまなこはカッと見開き、
役人達をにらみ付けていた。
累々と横たわる、変わり果てた夫や父親の胴体に取りすがって、
哭き叫ぶ女達の哀れな姿は、地獄絵さながらだった、
と伝えられている。
この事件の記録は、公式の島原藩史からは削除されているが、
地元では口伝えで今なお残っている。
なぜか...
凄惨な現場にいて、これを目にしながら庄屋は、
何等手を打たなかった。
処刑の直前に、命乞いを取り付いで欲しいと、
取りすがる世話役らの訴えを無視した。
そのうえ、その年の百姓の飢えを知りながら
役人に知らせていなかったことからも、
常々百姓の恨みをかっていた。
庄屋は“わが身大事”の保身からだったのか、政治家として
無能だったのか分からないが、全く適切な対応を欠いていた。
村人の恨みは、まっすぐ庄屋に向かった。
それから、霧雨の降る陰気な秋口の真夜中に、
火の玉が出るという噂がぱっとひろがった。
不気味な火の玉を見た村人は多かった。
火の玉は、“水分の辻”からボーッと出て、川を渡り、
庄屋屋敷のあたりでスッと消えた。
青白く光ったり朱色に燃えたり、消えかかるとすぐ光り出したり、
木の枝に引っかかったり、
ほかのと一緒になって大ぶりのになったりした。
12個出たので、世話役の霊魂だと百姓たちは気味悪く思った。
庄屋屋敷では、丑三つ時(注:今の午前2時から2時半)になると、
怪異なことが起った。
・・・裏木戸ふきんを12人の影が
わらじの足音を響かせて歩き回る。
・・・ぶつぶつ言い交わす男らの話声が聞こえる。
夜もろくろく眠れず、村の百姓達からは白眼視されて、
もはや庄屋は気が触れる寸前になった。
日蓮宗の永昌寺に駆け込んで、救いを求めた。
住職は深くよどんだ川面を見ながら、精魂傾けて加持祈祷し、
亡き者達の霊をねんごろに供養した。
その時を境に、“水分の辻”からボーッと出る火の玉は、
川を渡らなくなった。
向こう岸までやって来るが、
川を渡ることは出来なくなったようだ。
相川氏「(子どもの頃は)それはコワかったですよ。
火の玉を見に行こうとか、行きたくないとか、迷いましたね」
教育委員会にお邪魔して、町に伝わる伝説や民話を聞いていた
スーちゃんは、思わず、「えーっ、何で?」と、
身を乗り出した。
そして、温顔の相川教育委員長が話されたのは、
以上のようなこの町に伝わる不気味な伝説だった。
「今は、そのオ...街灯がちらっと立っていますから、
出るに出られんでしょう」
と相川氏は、笑った。
戦前、相川氏がまだほんの子どもの頃には
“お化けが出る”といって、昔、庄屋が住んでいた屋敷跡に
建つ家は、次々に引っ越してしまった。
おまわりさんの一家を始め、
相川氏が記憶しているだけでも4軒。
誰も住まなくなった庄屋屋敷跡には、碑が建ち、
“水分の辻”には「千代万代」と書いた
高札が掲げられている。
それにしても300年。
一口に300年というが、300年経った今も話が伝わっている。
農民の、暗く消えることの無い怨念を
子孫に伝えようとするエネルギーを感じずにはいられない。
口承にもし、先祖の意思を子孫達に伝えるという
働きがあるとしたら、その一例であろうか。
(参照資料 「西有家町郷土誌」西有家教育委員会刊、 1998年3月発行)
西暦(1610年)で記載された墓碑(国指定史跡)