キツネつまみ
― 吉四六[きっちょむ]ばなしから ―

(大分県、野津町)

大分県出身者なら誰でも知っているのが、この「吉四六ばなし」
出身者は、“教科書で習ったから”と言う。
吉四六さんは、江戸時代に実在した
「廣田 吉右衛門」という本名を持つ人だった。
スーちゃんはこの話を聞くために、吉四六さんの住んでいた村の
大分県は野津、今の野津町[のつまち]へはるばる出かけた。

吉四六さんの銅像
吉四六さんの銅像

5月初め、JR豊肥線(大分市~熊本市)の新緑が滴るようにまぶしい。
民家と畑がないまぜに点在するのどかな田園風景を眼下にして走ること40分、
左側の車窓からは、いつも広い川を見て進む。
やがて駅員一人のベビーのように小さな犬飼駅に到着した。
吉四六さんゆかりの野津町[のつまち]は、ここから車で15分の所にある。

ずっと案内して頂いた安藤紀一郎さん(犬飼町商工会・ほのぼの吉四六さん村長、以上取材時)は、「吉四六さんのことを広めたい、大切に継承したい、ただただそれだけでやっています」と、熱い気持ちをにじませて「吉四六ばなし」のあらましや、さまざまな吉四六さん掘り起こしの活動を語った。

緑色がこんなにさまざまの色合いだったかと感嘆するほど豊饒な山ふところの村、田んぼのあちこちに民家の屋根がきらっと光る静かな野津まち。
江戸時代も今と同じように、
時間は悠々と、確かな足どりで過ぎて行ったことだろう。

キツネつまみ

その頃、野津市(野津の中心地を野津市[のついち]と呼ぶ)
性悪キツネが出没して、村人をだますので、
みんなは夜は早くから戸を閉めて寝てしまうありさまでした。
ある晩のこと、吉四六さんは、
釣り竿を片手に魚籠[びく]にはフナをわざと2,3匹入れて、
村の溜め池にたたずんでいました。

(この池は埋め立てられて今は無く、
跡地には町立幼稚園の鉄筋コンクリートの建物がそびえていた)

そこへ、若者に化けた性悪キツネがやってきました。

「吉四六さんよ、こげな寒い晩にお前がなんぼ頑張っても、
こげん池で魚は釣れまいがな
(こげなさみイ晩に、なんぼ何でん、ここン池ジ魚ア釣れメエ)

吉四六さんは、心の中では、

“くそ、この化けモンが”

と思いながら、
おくびにも出さずに丁寧に答えました。

「釣るるとも、釣るるとも。
この魚籠[びく]を見てくれや(釣りイじかり、こん魚篭ウ見ちみよ)

魚籠をみて、化けギツネはいささか驚きました。

「本当(ふんと)じゃ。大けなフナが釣れちょる。
ワシにも釣り方を教えてくだんせな(教えちくりイ)

吉四六さんは勿体を付けて、

“タダでは教えぬよ”

と、言いました。
化けギツネは、姿を消すや、
あっと思うまに塩鯖を三匹、両手に抱えて、戻ってきたのです。
きっと、どこかからかすめ取ってきたものでしょう。

吉四六さんはほくほくしながら、キツネの献上品を懐にして、
すました顔で魚の釣り方を伝授してやりました。

それは、足を池の岸に踏ん張って、
尻と尻尾を池の水に浸けておく。

「そうするとな。フナのヤツが尻尾に食いついてくる。
頃を見はからっチ、イキノシに(出し抜けに、一気に)くるっと
尻を岸に回すんじゃ。
フナどもはいっぺんに釣り上げられチしまうんじゃ。
解ったかや?」

フナを釣ることでアタマがいっぱいの化けギツネは、
深く考えずに言われたように尻尾を池に浸け、
寒さにブルブル震えながら
じっと我慢して待ちました。

スーちゃんは、
若者に化けたキツネの尻尾がどうして見えたのか不思議に思います。
ま、いいの、いいの。
話の筋は、次のように進みます。

吉四六さんは、とっくに姿を消しました。
むろん、フナは一匹も来てくれません。
池はだんだん凍ってきて、さっきから尻尾はちくちく痛み始めました。

・・・あれれ、東の空が白みかけた。

人間に見つからない内に巣に帰ろう。

立とうとしても、どうやっても抜けません。
キツネは焦りますが、

ま、大けなフナが食いついているんだろ、
ちょっとくらいは痛いわさ、

と期待半分、未練たらたらに池の岸でまだ、足を踏ん張っていました。

夜が明けかけたので、
吉四六さんは犬を引っ張って様子を見にやってきました。
案の定、化けギツネが尻尾を抜こうとばたばたして、
えらい騒ぎです。
キツネは犬が大嫌い。

ほれっ、

と犬をケシかけると、うなり声をあげて今にもかみつきそう。
犬の迫力に仰天したキツネは、
尻尾をプツンと切って逃げ去りました。

命あっての物だね、
とはこういうことを言うのでしょうね。

この夜、吉四六さんにだまされたと思うと、
キツネはハラが立って眠れません。
夜闇に紛れて、大勢の仲間を引き連れて
吉四六さんちの麦畑にやってきました。
隙間もないほど石ころを放り込んで、畑をメチャメチャに荒らしました。

へっへっへ。

朝になって、
畑を見た吉四六さんもこれにはびっくり。

・・・ややや、キツネのヤツが仕返しに来たんじゃ!

キツネが馬糞を入れた畑のあった所
キツネが馬糞を入れた畑のあった所

吉四六さんは、大きな声で妻のおへまさんに言いました。
物陰でキツネが盗み聞きしているでしょうから、
こんなことを言いました。

「うまいことになったもんじゃのう。
うちの麦は出来が悪いキ心配しちょったら、
親切な人がこげえ一杯、石の肥やしをやっチくれた。
有り難えことじゃ(ふがいイこちなったもんじゃのオ)

もっと大声を張り上げて続けました。

「間違えて、馬のフンでも入れチくれたら、
麦が枯れてえらいことになるところじゃった。
石肥えのお陰で、今年は豊作疑いなしじゃ」

次の朝、吉四六さんが畑に行った所、
昨日の石はすっかり無くなり、
代わりに馬のフンが麦畑にびっしりと並んでいました。

吉四六さんは、
うそ泣きをしながら言いました。

「ああ、困ったのう。誰のワヤク(いたずら)じゃろうか。
ウチの麦はワヤ(駄目)になっチしまうがのう」

思った通り、畑の馬糞は日毎に量を増しました。
吉四六さんの畑からは、
例年の倍以上の麦が採れました。

それからというもの性悪キツネは、
もう決して野津村に姿を見せませんでした。

申し、こうし、米んだんご
(参考資料:宮本 清著「吉四六ばなし」大分合同新聞社刊)

スーちゃんのコメント



【取材日】 1998年5月2日
【場 所】 野津町の関係各所
【方言指導】 安藤紀一郎氏
【取 材】 藤井和子

吉四六さんは吉右衛門がなまったもので、
この野津で代々小庄屋を務め、
百姓ながら名字帯刀を許されていた名家だった。
廣田家は、明治43年(1910年)まで11代続いたが、
家屋はすでにない。

屋敷跡に立つ安藤紀一郎氏
屋敷跡に立つ安藤紀一郎氏

名門廣田家では跡取り息子に
吉右衛門という名を世襲で伝えていた。
吉四六さんが何代目か、さだかではないが、
一説では、寛永5年(1628年)から正徳5年(1715年)
まで生存し、88歳で他界した
初代の吉右衛門のことだとされている。
墓や位牌のまつっている廣田家の菩提寺、
普現寺所蔵の過去帳や、
墓石の刻印からこのことが判明した。

しいんとした普現寺に安藤氏の案内で訪れた。

普現寺のたたずまい
普現寺のたたずまい

寺の境内には、約360年前、
吉四六坊やが遊び回った僧坊が当時と同じ姿のまま、
緑の木々が深い影を落としていた。
ものいわぬこの寺は、たたずまいの中で、
300年というはるかな歴史を語っているのだ。

日本の場合、寺院の過去帳を調べれば、
苦もなく3,400年位はさかのぼることが出来て
自分の先祖(ルーツ)をたどれる。
これに比べて、
アフリカ系アメリカ人の著者による
「ルーツ」(80年代)という本が
ベストセラーになったことがあるが、
アメリカ人にとって、先祖探しの取材調査は
大変なことだったと思う。

この「吉四六ばなし」には、
吉四六さんのとんち話やずるい話、人をだます話、
しくじり話などを軸として、
江戸時代初期の庶民の生活が活写されていて、
興味深い。