耳切坊主[みみちりぼうじ]
次の話は、
金城春子さんが口ずさんだこの「わらべ歌」で、始まりました。
♪大村御殿[うふむらうどん]の 角[かどう]なかい~
耳切坊主[みみちりぼうじ]が 立っちょんど。
幾体、いくたい 立っちょが~ヤ
みっちゃい(三体)、よったい(四体)立っちょんど
泣いちょる 童[わらべ] 耳ぐすぐす
ヘイヨ~ヘイヨ~ 泣~くなよ♪
(意味:村長の居る屋敷、大村御殿の角々[かどかど]に、耳切り坊主の幽霊がいくつ立っているのでしょう? 三人も四人も立っているよ。
泣く子の耳は、グス、グスッと音を立てて切られるよ。
ハイヨ、ハイヨ 泣くなよ)
この「耳切坊主」(または“大村御殿”ともいわれる)の子守歌は、
本当はこわい話なんですよ、と、春子さん。
話は次のようなものです。
この坊さんは、皮膚が大変黒く、
それで黒金座主[クルガニザーシー]という名前がついたほどでした。
坊さんというのは、普通は、困っている人や、
苦しみ悩んでいる人を助けるものですが、
この人は女を騙すのが大好き。
寺に入って行く女の人を見かけても
出て来るのを見た人はいない。
このことを知って王様は、
これは大変なことになる、坊主としては優れた人だが、
こんなしたたかな男を生かしておくわけにゆかない、
と思いました。
この坊主に対抗できるのは、
琉球国では北谷王子[ちゃたん]しかいない。
王子を呼んで頼みました。
「黒金座主と碁をしなさい。命を賭けよ」
負けた方は生命を取られるという大変な賭けになったのです。
ところが、二人とも自信があります。
黒金座主は腕をさすりながら出てきて、
王子に勝負を挑むことになりました。
時間が経つにつれて、黒金座主が危なくなってきた。
そこで得意の妖術を掛けたが、
なぜか王子にはちっともかからない。
ついに黒金座主がはっきりと負けたとき、王子が命じた。
「そちらの命を取ろうとは思わぬ。
その代わり、耳を一つ貰おう」
これがもとで、
黒金座主は破傷風にかかって死んでしまった。
それからは、幽霊になって耳を切ろうと、
出没し始めたのでした。
黒金座主は、なぜか女の子の耳は興味がなく、
男の子の耳だけを狙ったのでした。
男の赤ん坊が生まれたら、さあ、大変。
難を逃れるために、
このように唄ったのでした。
♪ウフーイナグの 生まれたんどオ
ウフーイナグの 生まれたんどオ♪
(大きな女の子が 生まれたよ)
(1941年7月13日生まれ)
沖縄県出身の真喜志氏によると、
この童謡のもとになったのは、
18世紀前半に起こった事件に基づいているという。
那覇若狭町の護道院という寺院に
黒金座主という僧がいた。
その実名は、波上護国寺の真言宗の高僧、
盛海上人と呼ばれたようだ。
彼は妖術を使ったことから、尚敬王(1713~51)の弟の
北谷王子に成敗された。
寺側の記録にも
「盛海仁王を建立。王命により惨殺さる」
の一文が残っている。
盛海は刑死した後までも、幽霊となって、
北谷王子家を呪い続けた。
(真喜志きさ子著『琉球天女考』1993、沖縄タイムス社刊)
上人という高位に登った僧が、なぜ、
成敗の対象となり刑死しなければならなかったのか、
また、死後なお崇[たた]るという激しい行動に
駆り立てるのは、なぜだろうか。
「自分は罪を犯して死ぬのではない」
という憤激の現れ、
詰め腹を切らされた理不尽さを
後世にも訴えたかったのではないだろうか。
かつて、一世を風びした梅原猛著
『水底の歌』(柿本人麿の刑死)や
『隠された十字架』(法隆寺と聖徳太子のおそるべき因縁)に、
こってりと描かれた日本的な刑死と憤死、そしてたたり。
この童謡の背後にも、一直線上にきれいに並ぶ、
刑死、憤死、たたりの構図があるとしたら、
背後には隠された暗黒の歴史がある。
たとえば、新旧宗教の覇権を巡る確執、政治とからんで
敗北し歴史の闇に葬むられた宗教者の存在など、
歴史のきしみを感じるが、どうだったのか?
スーちゃんは、この高僧が淫蕩な僧として
民話の中で語られるのに、
なぜ男の子の耳だけをそぐと唄われているのか、
惨殺の場合、耳をそぐ風習でもあったのか、
などなど、あやしい疑問が湧く。
寛容な気持ちで読むのが昔話だから、
この疑問は解けなくてもいいと思う。
民話やわらべ唄には、正史には残せないが、
後世には本当のことを伝えたい、
という先祖の「声無き声」が伺えて興味深い。