人魚、ヨナイタマ伝説

(下地島)

次の伝説は、伊良部島出身の福島方希氏に伺ったものです。
ヨナタマという人もいますが、福島さんはヨナイタマと発音しました。

昔、ある時、伊良部の漁師が珍しい魚を網にかけた。
大きな魚で不思議な姿をしていた。
上半身は人間の顔の面影を残し、
ふっくらした胸の辺りには、おっぱいも付いている。
下半身はうろこの光る魚体であった。

人魚図
人魚図
「観音霊場記図絵」
(国会図書館蔵)

漁師は家に帰ると
さっそく料理に取り掛かった。
包丁を研いで、

“さあて、これを料理しよう”

と呟きながら、
魚をまな板の上にのせた。
余りにも大きな魚なので、

“明日になったら、隣の漁師にも手伝って
貰って、半分、分けてあげよう”

と、そのまま寝た。

真夜中になって、海の方から腹に響くような低い、
威厳に満ちた声が響いた。

「ヨナイタマ、ヨナイタマ。おまえはどこに居る?
早く竜宮に戻っておいで」

それは、
父の竜宮王が娘を捜して、呼びかける声であった。

(スーちゃんは、
"I am a king under the sea. My daughter, my love, where are you?"
と呼びかける、バスの中でも最も低い深い声が、
なぜか聞こえるような気がします。
この場合、英語の方が、直裁に心に響きます)

まな板の上に横たわっているヨナイタマは、
ぽろぽろ涙をこぼしながら全身の力を振り絞って、
かすかに声を出した。

「助けて! 私はもうすぐ殺されます。おとう様!」

すでに、彼女の半身は切り刻まれて塩付けになっていて、
残りの半分は明日朝にも、料理される運命です。

父王は言いました。

「明日朝、おまえの所に津波をよこす。
その時に泳いで戻れ」

その言葉通りに、
竜宮王の怒りを含んだ大津波が押し渡ってきた。
家も木も怒涛の中に呑み込まれて、
彼方の海に押し流されて行った。

漁師の家と隣家の2軒は、地中深くド~ンと落ち込んで、
屋敷のあった箇所は、深い、不気味な池になった。
今、通り池と呼ばれているのが、
漁師達の屋敷跡だといわれている。

写真 下地島の通り池
下地島の通り池
島の観光スポット。切り立った珊瑚礁の岩肌が池に延び、
怪しい雰囲気を醸している。飛び込んだら二度と上がれなさそうだ。
(撮影:藤井和子)

スーちゃんのコメント



【語り手】 福島方希氏
(大正10年<1921年>9月25日生まれ)
【取材日】 2005年5月21日
【場 所】 宮古島市内(宮古島温泉リハビリセンター)
コーディネーター 譜久島和代氏(伊良部島、教育委員会)
【同 席】 福島夫人、譜久島和代氏
【取 材】 藤井和子

語る福島方希氏
語る福島方希氏

皆さんは、人魚が半身を料理されている、
この昔話にショックを受けるだろうか。
しかし、もし衝撃を受けない程度の内容に改ざんするならば、
「昔話の世界」は、いったいどうなるだろうか。

昔話を語ってくれる語り部がよく言うのは、

「聞き手が面白がって聞いてくれると張合いがある」

ということである。
実際、大筋は同じ話なのに、

“ここはなぜか詳しく話している”

と、思うことがよくある。
語り部は目の前の聞き手の反応を
チラチラと窺[うかが]いながら話を進めているために、
相手の喜ぶ所は腕にヨリをかけて、
あれこれと話を膨らませて行くことが多い。
話の勢いをつけるため細部を付け加えることがある。
ただし、決して話の内容を改ざんしたりはしない。

昔話は子供でも分かる話であるから、
勧善懲悪がはっきり分かること、
つまりよいお爺さんと悪いお爺さんの出現と、
なぜよいお爺さんがよくなって悪いお爺さんが懲らしめられるか、
話の筋立てはきわめて明快である。
これは口で語る話であるから、
目の前に居る子供が幼いアタマでも
十分に理解できることという必要条件による。

また、子供が期待するように、
悪いことをしたお爺さんには必ず罰が当たる。
反対になったら、
子供の気持ちは救われないだろう。

昔話は本来、耳で聞いて楽しむものであるから、
極端な筋の方が理解しやすい。
・・・「舌切り雀」では、悪いことをして舌を切られるし、
お婆さんを殺した「かちかち山」のタヌキは
泥舟に乗って沈められる。

これらの著名な昔話が、
例えば、雀は舌を切られず、
タヌキは泥舟から逃げだして助かった、となってしまったら、
昔話の主旨は、原典とは全く違ったものに変貌する。

残酷な内容の昔話があるのは事実である。
子供のアタマには、極端なケースだからこそ、心に残ってゆく。

“xxしたから、○○になった”

と、幼くて乏しい生活経験しかなくても納得する。
聞き手が大人であっても、
甘口に脚色された耳ざわりのいい昔話では、心に残らない。

現在では、耳ざわりのいい話になってしまった絵本は、
ゴマンとあるのですよ。
なぜこうなってしまったかは、
長くなるので機会があれば、また。

自主規制された“きれい、きれい”の昔話だけで育った、
純粋培養の子供と、
残酷な話も取り混ぜて聞いて育った、
雑草のような子供と、
どちらがダイナミックな考え方が出来るようになるか、
考えてみるのも無駄ではあるまい。

昔話は、お化けが出てきたり
キツネやタヌキがものを言ったりする
空想の世界である。
そういう非現実の世界だから、
例えば“人魚を料理するのは残酷なことだ”という、
常識を持ち込むような改ざんは、避けたいのである。