人魚の教えた大津波

(石垣島)

これも人魚と津波の話ですが、
後ろの伊良部の話とは違ったバージョンになっています。
石垣島で聞いた興味深い津波の昔話です。
さて・・・

石垣島の東北に野原村[のばるむら]という小さな島があった。

(今は、もう無いそうです)

真っ白い砂浜が1里(4km)ほど続く、
花の溢れる美しい村であった。
村には50人くらいの人々が住んでいた。
百姓と漁とで生計を立て、みんな仲良く暮していた。

夜になると村の若者は、
涼を求めて三々五々、海岸に集まってきた。
月がこうこうと辺りを照らして、
彼らの弾く三線[さんしん]が賑やかに響いた。

♪いや~、いや~、いや~、ゆら~てくう、
         寄[ゆ]りてく、踊[うど]りたし♪

(西表さんは、若々しくきれいな声で歌ってくれました)

写真 西表 秀さん
西表 秀さん
(撮影:藤井和子)

踊り出すもの、唄うもの、
酒を口にするものなど、
思い思いに過ごす
楽しい宴[うたげ]であった。

と、そのとき・・・
はるかな沖から、
美しい女の歌声が聞こえてきた。

♪うなかいしゃ、じゃかいみ~か♪

「ちょ、ちょっと耳を澄ませて聞いてごらん、
誰が唄うんだろう?」

この時刻には、もう誰も海にはいないはず。
いったい誰が鈴を振るようなきれいな声で唄うのか、
見当がつかない。

それからも、
ときどきこの不思議な歌声が沖から聞こえるようになった。

ある日、その晩も月のきれいな夜であった。
5~6人でサバニという小舟に乗って漁に出た。

“今日は、何て月のきれいな晩だろう。波も無いし・・・”

と、みんなで言いながら、
どんどん沖に漕いで行った。

その日は、どうしたことか魚がどっさり懸かってきた。
大きいのやら、小さいのやら。

「さ、もうこれで終わりにしよう」

と、最後の釣り糸を垂らして引き上げようとした。

「これは、大物だ。手応えが今までのと違う!」

うんやこらしょ、よっこらしょ。よいやしょ、よいこらしょ、

皆で力をあわせて舟に引き上げた。

それは、見たことのない大きな魚だった。
しかも異様な姿をしていた。
人頭魚尾とでもいおうか、上半身は美しい娘だが、
下半身は魚のひれがあってピチピチ跳ねていた。

「これア、珍しい生き物が釣れたぞ。
不思議じゃ。村に持って帰ってみんなに見せよう」

と、島に向かおうとしたとき、
この生き物は、ポロポロ涙を流して、口を開いた。

「お願いです。
私は海に棲んでいる生き物で、人魚というものです。
どうか海に放してください」

若者達は

「そんなこと、出来ないよ。村のみんなに見せるんだ。
人魚なんか見たことがないから見せ物にするんだ」

と、いきり立った。

そのとき、年寄りの漁師が、割って入った。

「かわいそうに、こんなに涙をポロポロこぼしている。
帰りたがっているから、放してやろうよ、許してやろうよ」

人魚は必死で頼んだ。

「もし放してくださったら、海の秘密を皆さんに教えます。
大変なことをお話しします」

みんなはお爺の説得に負けて、
海に戻してやることにした。
人魚は、

“ありがとう、ありがとうございます”

と言いながら、サバニの周りをうれしそうに何回も泳いだ。
それから静かに口を開いた。

「海の秘密というのはね。
明日朝、この島に恐ろしい津波が襲います。
この島を一呑みにね」

漁師達は聞き耳を立てて、
人魚のいうことをじっと聞いた。

「これア、どういうことか? この話は、本物だろうか」

「うそかもしれん」

がやがや。

「人魚は不思議な力を持っているという。
信じて、早く山に逃げたほうがいい」

意見がこの方向でまとまって島のみんなは、
家財道具など一切合財を持って山に逃げる準備をした。

もう時間が無い!

そのとき、誰かが言った。

「隣の白保村にもこの話を伝えなければ」

若者が早馬で、
タカタカ、タカタカ白保を目指した。

「た、大変だ。
人魚の娘がやってきて“明朝、大きな津波が来るから、
早く逃げよ”
と言っているぞ」

と、白保村に駆け込んだ。

村人は、

「人魚だって?
そんなものの言うことを真に受けてどうする! ばかばかしい」

と、取り合わなかった。

若者はすごすごと野原村にとって帰った。
村人はもう避難しており、
みんなは朝早くから山の上で、じっと海を見つめていた。

と、そのとき・・・

突然、スーッと潮が引いた。
どこまでも潮が引いた。

“へ~え、こんなに引いているのに、津波が本当に来るのかア”

と、村人が話している内に、黒い雲のようなものが、
水平線上にブワーッと広がった。
次には、それがウワ~ッとものすごい音を立てて、
ぐんぐん島に押し寄せてきた。

(人形劇の脚本も書くという西表さんの津波シーンの再現は、
ものすごい迫力でした。スーちゃんは思わず、窓の外を見ましたね)

恐ろしい音を鳴り響かせて、
大波が岸を削りながら村に入ってきた。
あっという間もなく、村をひと呑みにし、
木を根こそぎ倒し、家を流した。

村人は、山の上でブルブル、ブルブル震えていた。
子供達は、ワアワア泣くし、
目の前で起っている光景は信じようとしても、
何だか夢を見ているようであった。

(2004年12月のスマトラ沖大地震で、
津波が全てを破壊するありさまが、映像で残っています)

一夜明けると、海は静まり返っていた。
村人が、

“もういいだろう、津波は去った”

と話しながら、村に戻って見たものは、信じ難い光景だった。

荒涼とした、何も無くなった村が目の前に広がっていた。
風だけがピューピュー通り抜けて行く。
おびただしい石ころが、あちこちに転がっていた。

・・・島が無くなった! これから、どうしたらいいのか。

村人は泣いて泣いて、地面にぺたりと座り込んだ。

・・・でも一人残らず助かった。
みんな一緒なんだ。生きている!

・・・これは誰のお蔭か? 海で助けた人魚姫のお蔭だ。

少しずつ前向きの気持ちになっていった。

一方、人魚の言うことを信じないで、
忠告をてんで取り合わなかった白保村は、
避難をしなかったので壊滅した。
朝早くから、野良に出ていた数人だけが助かったという。

これが、明和の大津波に関わる石垣島の昔話である。

おわり
石垣市の津波石(大浜崎原公園)
石垣島の津波石、重さ 500~600 t という (大浜崎原公園)
(提供:石垣島地方気象台)

【語り手】 西表 秀[いりおもてひで]
(大正11年<1922>7月15日生まれ)
【取材日】 2005年5月22日
【場 所】 石垣市内(西表氏ご自宅)
【取 材】 藤井和子

津波に消えた木泊村[きどまりむら]

(下地島)

下地島にあったが、大津波で消失した木泊村[きどまり]が、
どこにあったか2説ある。
通り池がその跡だという説が一般的だが、福島氏は、
「下地島の飛行場の、今、誘導塔の立っているあたりさね」
と、明快に答えた。 さて・・・

大津波で木泊村が全滅したのに、
なぜ一軒だけ生き延びることが出来たか、という話である。

伊良部島と双子の島、下地島のイラストマップ
伊良部島と双子の島、下地島のイラストマップ
(提供:伊良部町、観光商工課)

木泊村は、10軒か20軒そこそこの小さな村だった。
その日は、もう真夜中に差し掛かっていた。
その家の小さな子どもがむずかって、
どうやっても泣き止まなかった。

「ウマヤ(母の実家の祖母の家)に行きたいよオ」

と、顔を赤くして大声で泣いた。
どんなにあやしても大泣きを止めない。
ウマヤは、この家から遠い伊良部島の国仲にあった。

下地島は伊良部島の一部で、
島としては珍しい双子の島として有名である。
この島の間には、細い水路がある。

福島氏は言う。

「今、伊良部島へ渡る5つの橋も、
昔は、3つ(国仲地区、仲地地区、佐和田地区)だけ、
懸かっていたんだよ」

「福島さん達は、どうやって渡ったのですか?」

(伊良部町村史によれば、国仲地区の架橋は1913年<大正2>、仲地地区は1918年<大正7>架橋、佐和田の橋だけは1915年<大正4>に改修されたが、いつ架かったかは不明なので、大津波<1771年>の頃には、架橋されていなかった可能性が高い。歩いて渡河したのか?)

この3つの橋も、近くの橋まで行くのに、
かえって遠まわりになる人もいて、難儀した。
潮が引いたときに歩いて渡ったものだった。
急用の時には何と、
大して深くない箇所を選んで、
パンツを濡らしながら渡ったというからすさまじい。

・・・さて、母親は、火が付いたように泣き続ける子を持て余した。

真夜中に実家のある伊良部島の国仲まで行くのは
考えただけでも気が重い。

“身体はどこも悪くないのに、何でこんなに泣くのか?
向こうで何か悪いことが起こったのだろうか?”

と、心配するあまり、出かけることにした。

飼っているニワトリが、
何でこんなに騒ぐのかというほどバタバタ騒いだ。
家を出るとき、うるさく後をついてきて、
追っても蹴飛ばしても、なぜかついてきた。
子どものニワトリまで一緒についてきた。

恐ろしい津波が村を襲ったのは、翌朝だった。

子供の泣いたおかげで一家は村を離れており、
生き延びることが出来た。
蹴飛ばされても懲りずにあとをついてきたニワトリの一家も、
自分の力で助かったわけだ。

(2004年12月26日のスマトラ島沖大津波の直前、タイ南部(カオラックの海岸)の観光用の象達が異常な叫び声を上げながら、山に向かって、鎖を切りしゃにむに逃げたことは世界的に有名な話になった。 このニワトリも、動物の危険予知能力のせいかどうか分からないが、民話に残っていることは興味深い。しかし、このニワトリ、コンジョ(根性)ありますね)

一度の大波が、村をきれいさっぱり、
まるで掃除したように、海の彼方に連れ去ってしまった。

大津波から200年以上経っても、
ブタや山羊を飼っていた石垣の跡が残っていた。
屋敷もそれと分るほど跡をとどめていた。
このように破壊されつくした村には、もはや誰も住まわず、
二度と蘇らなかった。

福島さんは

「3回位大きな津波が来た。
木泊村が消えたのは、一番後の明和の大津波でないか、と思うさア」

と、言った。

福島氏の幼い頃、
この話は皆が普通に話していたそうである。

下地島の津波石
下地島の津波石
(提供:宮古島地方気象台)
佐和田浜(伊良部島)に散らばる残留岩石
佐和田浜(伊良部島)に散らばる残留岩石。自然の猛威を目のあたりにする。
(撮影:藤井和子)
下地島の飛行場風景
下地島の飛行場風景
国有地となった下地島の空港は昭和54年に開港した。
現在はパイロットの養成訓練センターとなっている
(撮影:藤井和子)

【語り手】 福島方希氏
(大正10年<1921年>9月25日生まれ)
【取材日】 2005年5月21日
【場 所】 平良市内(宮古島温泉リハビリセンター)
コーディネーター 譜久島和代(伊良部町、教育委員会)
【同 席】 福島夫人、譜久島和代氏
【取 材】 藤井和子

スーちゃんのコメント

明和の大津波は、1771年4月24日(旧暦3月10日)
午前8時頃のこと。
石垣島の南南東35キロ付近の海中を
震源とする地震であった。
今から234年前(覚え易い数字ですね)
災害の様子が、伝説として残り、
口伝えで世代から世代に伝わっているのは面白い。
人魚(ザンと呼んでいる)に助けられた、
という民話である。
この地震自体はマグニチュード(M)7.4という揺れで、
例えばスマトラ島沖の9.0と比べると
揺れの被害は殆どなかったらしい。
津波の被害は甚大だった。

石垣市の建立した「明和の大津波慰霊塔」には
津波の様子が克明に記されている。
口承の民話と比べると面白いかもしれない。

明和の大津波慰霊塔
明和の大津波慰霊塔
犠牲者を悼んで毎年、4月24日に市役所主催による慰霊の行事を行う。
2005年には、一般市民の他、関係者約100名が参列した
(提供:石垣市役所)

碑によると・・・

朝8時頃、地震があった。
次いで島の東方に雷鳴に似た轟音がおこり、
外の瀬まで潮が引いた。異常な引潮であった。
島の東北、東南方面から黒雲のような大波が広がり、
たちまち村をおそった。

CGシミュレーションによれば、津波発生から16、7分で
怒涛のような津波が島の内陸部まで達した。

明和の大津波のCG
明和の大津波のCG
(提供:(財)亜熱帯総合研究所)

津波の高さはたとえ1mでも人命に関わるという。
2mでは確実に死者がでる。
僅か70cmの波に追いつかれて9人中3人が命を落とした
日本海中部地震(1983年)の報告がある。
津波は普通の大波とは違う速度と強さ、パワーを持つ。
2004年、石垣島に津波警報が出たときに、
観光気分で海を見に行った人々がいたそうである。
防災関係者はアタマに来たというが、
スーちゃんも唖然としましたね。

明和の大津波では、石垣島宮良で最大85.4m、
宮古島では40mという波高を記録している。
被害も甚大で、石垣島ではなんと
人口約3万人が2/3に激減した。
溺死者が8335人も出た。
宮古島地方(宮古島、伊良部島、多良間島)でも
2548人が溺死したという。
石垣島の白保村は激甚災害地であった。
人口(1574人)の98%が溺死したというから想像を絶する。
民話にあるように野良に出ていた人達(28人)だけが
命拾いしたのだろうか。

石垣島と下地島の洪水伝説は、
津波を避けることが出来た話である。
小さい子どもや、動物が
不思議な危険予知能力を持つと言いたそうである。
タイの象を含め、スリランカ動物保護区でも
野ウサギ一匹たりとも
野生動物は被害に遭わなかったという。
彼らは地震の音を察知したのか、
津波の発する低周波を感知できたのか、
このへんになると現代科学も霧の中・・・でしょうか。