浜千鳥亭主(タマビー)

(沖縄県、波照間島)

昔むかしあるところに、
独り者の男が暮らしていらっしゃいました。
その人が、ある日、魚釣りに海に出かけまして、
釣れた魚はとってもきれいで、
可愛くて珍しい魚でありました。

(桃李[とおもり]さんは、とても丁寧な口調の共通語で、
ゆっくり語ってくれた。)

語り部の桃李シゲさんの庭先で。
語り部の桃李シゲさんの庭先で。
「花が好きなので、これらの花は自分で作りました」

食べるのはもったいないと思って、水瓶で育てようと思った。
魚をタマビーと呼んで、可愛がって育てた。

ところが・・・
畑から戻って来ると、
いつもご飯が出来ていたし、洗濯もしている。
毎日、こんなことが続いた。
だんだん不思議に思い始めて、隣の婆ちゃんに相談した。
すると、

「畑に行くフリをして、半分行ったところで、戻ってきてごらん」

いきなり戸を開けると、
見たこともないきれいな女が立っていた。

「あんたは、どこのどなたです?」

「私? 魚のタマビーです。
もともとは、竜宮から来たのです。
“あの男を助けよ。”と、神様が命令なさって、
私が遣わされて来たのですよ」

「私の口から“魚から女になることを絶対に話すな。”
と、神様に言われて、やってきました。
今、こんな話をしたからには、
もはや一緒に住むことはできません」

ついで、こう言って頼んだ。

・・・竜宮に戻るには、
わらじが13足なければ帰れないから、
それを作ってください。

男は嘘だろう、と軽く考えたが、
とにかくわらじを13足編んだ。
すると女は、

「今から、海に帰ります」

と言った。
わらじを肩に掛けて、家から出て行った。

男は、見え隠れに女の後ろから、ついて行った。

タマビーは、海に入った。
足が水に漬かり、膝が隠れ、胸まで潮が来た。

・・・首まで漬かると、姿が見えなくなった。

「タマビー、タマビー!」

男は、必死で呼びかけが、
タマビーは二度と姿を現わさなかった。

“やさしいタマビー、
いろんな事をしてくれたタマビー”

男は、タマビーのことを想って、
気が触れたように、岸辺をさまよった。
何日も、何日も歩いた。
ついに恋焦がれて、岩にくっついて死んでしまった。

・・・男の魂は、浜千鳥になったそうですよ。

メダイチドリ
メダイチドリ
土の中のゴカイを引っ張って食べているところ。
写真提供:淀川ネイチャークラブ

スーちゃんのコメント



【語り部】 桃李[とおもり]シゲさん
(大正11年<1922年>10月生まれ)
【取材日】 2006年5月20日
【場 所】 波照間島、桃李氏自宅
【取 材】 藤井和子

この話は、桃季さんが20歳頃に、おばあから聞いたという。
魚が女の姿になって妻になる。
不思議に思って、どこから来たのかと聞くと
「竜宮から、神様の命令で来た」と、答える。
竜宮からやってきた魚が、妻になるという異類婚譚であり、
妻に逃げられた男は浜千鳥になる。
魚が人間になり、一方では、本物の人間が千鳥になるという、
相互異類婚になっている。

この話を伺って、“そろそろ辞去しようか。”と、
テープレコーダーに手を延ばしかけた時に、桃李さんは、
何か言いたそうな実に辛そうな顔をした。

「テ−プを止めてください」

そう言うと、突然、思いもかけない言葉を耳にした。

「もう一度、戦争になったら、死にます」

“えっ? <死にます>って?
普通は、<死んだ方がマシです>と言うのだが?
この強い表現は、いったい何をはなしたいのか?”

桃季さん「家内中がマラリヤにかかって、枕を並べて寝ていました」

スー「シゲさんは?」

桃季さん「私だけが、なぜか家族の中でたった一人、
マラリヤにかからなかったのです」

桃季さん「ですから、ナマコがマラリヤに効くというので、
乳飲み子を背負って、浜に取りに行きました。
毎日のように」

波照間島の海岸
波照間島の海岸

それは、第二次世界大戦の末期に、
波照間島に降り掛かった想像を絶する災難のことであった。
桃季さんが断片的に話したことは、
資料によって補うと次のようになる。

戦争末期の昭和20年旧暦3月3日、
全島民1275人は、隣の島の西表島南岸、南風見田[はいみだ]等に
強制疎開させられた。
南風見田は、マラリヤの巣窟であった。

西表島へ疎開した者全員のうち、マラリヤ罹患者は、
実に98.7%(1259人)、死亡者461人(36.2%)
罹患しなかった幸運な人は16人(1.3%)だけであった。
何という数字であろうか!

(資料:「もう一つの沖縄戦・・・マラリヤ地獄の波照間島」
石原ゼミナール・戦争体験記録研究会、石原昌家監修、ひるぎ社刊、1983年)

波照間はそれまで、あまり空襲を受けなかったが、
2~3のかつお工場は2月8日に空襲被害を受けた。
桃季さんによると、

「かつお工場は、まるで矢が突き刺さるように、
数え切れないほどの集中砲火を受けたんです」

そんな中で、強制疎開の話が持ち上がった。

昭和20年はじめ頃、学校教師の触れ込みで
山下虎雄(偽名と判明)という20代の男が赴任してきたが、
実は中野学校上がりの離島残置工作員であった。
次第にその仮面を剥いでゆき、強圧と威嚇によって、
反抗すると日本刀を振り回すなどして、住民を統率した。

強制疎開の命令が、当時、石垣島にあった
八重山守備軍(独立混成第45旅団)旅団長から出た軍令だったのか、
たった一人の男の独断だったのか、
今も歴史の闇となっているようだ。

西表島に移送直前、島内の家畜3000頭
(牛、馬、山羊、ブタ)はむろん、ニワトリ5000羽まで、
米軍の食糧になるから、という理由で惨殺した。
実際は、大部分が食糧として、
日本軍に供されたという
(資料:HP「終らない戦争」より)

家畜のとさつには1カ月を要し、その腐臭、死臭やハエの乱舞で、
島はどこにいても、不衛生この上もない状態に陥った。

強制移住先の西表島の南風見田[はいみだ]では、
一ケ月たった頃から、ぼちぼちとマラリヤ患者が出始めた。

旧暦7月7日、桃季さんらは波照間島に戻った。
家畜はおらず畑に作物はなく、
島には食べ物が残っていなかった。
誰もが栄養失調になった。

住民の飢えを救ったのは、ソテツだった。
ソテツの毒を抜く方法は、昔から伝統的に波照間島に伝わっており、
他の島ではソテツを食べて死んだ人がいるが、
波照間人は一人も命を落とさなかった。
ソテツを一本切れば、半月分の食糧になり、
当分の飢えを救うことになった。

そのうち島民が、ばたばたとマラリヤで倒れ始めた。

桃季さん「村中の殆どが罹患して、次々に死んで行きました」

西表島でマラリヤの保菌者になっていた島民のうち、
まず体力のない子供、老人から犠牲者が出始めた。
日本軍は、マラリヤの特効薬キニーネ、アテプリンを
住民に配布する余裕がもはや無かったのか、
人権を軽視していたのか、その双方だったのか・・・絶句する。

そんな中、桃季さんは、枕を並べて高熱に苦しむ家族に、
ナマコを採ってきて食べさせるしか方法がなかった。
マラリヤは周期的に高熱が出て、
何時間も何時間もブルブル振るえるという。
食べ物は喉を通らないので、体力がない者から死んで行く。
高熱が出ると、畳を剥いで板の間に寝かせ、
バケツで水をぶっかけた。
看病する家族も、明日はわが身、もはや極限状態だ。
1945年から1947年までの、復員者を含むマラリヤ罹患者は、
全島民1511人のうち、実に92.4%(1396人)
死亡者488人(32.3%)
罹患しなかった人は115人(7.6人)であった。

(資料:前掲書、175p)

まず疑問を持ったのは、戦時中の島民に対する
補償問題が片付いているのかどうかという点だ。
島民の蒙った実害(強制疎開、マラリヤ禍、財物の損害)は、
紛れもない事実である。
戦後処理にしてはあまりに遅いが、
高齢になっている被害者が生存している今なら、まだ間に合う。
桃季さんは、補償をいっさい口にしなかったが、
しかるべき機関(例えば沖縄開発庁や、厚労省)は、
きっちりした結論を出すべきではないか。
それは弱者を見捨てない点で、国家の矜持に関わることである。

(参照資料:、「日本列島を行く(1)・・・国境の島々」
鎌田慧著、岩波書店、2000年)

波照間島の民家
波照間島の民家