鉄砲撃ちの兄弟
あったてんがの。
ある村に、毎晩、化けもんが出て来る。
村の衆はみんなおびえて、外へ出ねえで、家の中に入っていた。
鉄砲撃ちの兄弟がいた。
「このままでは、村が駄目になってしまう。
おらが行って、そいつを退治しようじゃないか」
二人は玉をいっぱい込めて、鉄砲を担いで、
山に登って行った。
こっちの山にはオジ、こっちの山には兄と、
二手に別れて、山に登った。
(方言が少しありますが、以下では、主として共通語にします。)
兄がどんどん登って行ったら、広い所に出た。
やがて夜になった。
向こうの方から、パアッと明りが射してきた。
・・・いよいよ化けもんが出てきたな!
兄は鉄砲を構えて、待った。
向こうから婆さんが、苧[お]を積[う]む桶を持って、近づいてきた。
「こんばんは。ようおいでなさったな」
ニコニコしながら、言った。
なぜか、ぞっとした。
兄はじい~っとにらんでいたが、腹を狙ってダーンと鉄砲を撃った。
婆さんは、何もなかったようにニコニコしている。
次には、頭を狙って、鉄砲をぶった。
相変わらず、ニコニコしている。
はて? いったいどうしたことだろう。
兄は困って、ダーンダーン、ダーンダーンと、何発もぶった。
どこを撃っても、手ごたえがなく、
今までのようにニコニコ、ニコニコ笑っている。
・・・こんなことをしていたら、玉が尽きてしまう。
兄はいよいよ焦って、撃ちまくり、とうとう玉は一発も無くなった。
・・・ああ、兄の玉は、もう絶えてしまったんだ!
こっちの山で、鉄砲の音を数えていたオジは、たまらなくなった。
“兄が、生きていてくれればいいが。”
心配でどうしようもなくなって、明るくなるのを待てないで、
こっちの山を降りて、兄の居るあっちの山へ向かった。
広い場所があった。
・・・や、やっぱり! に、にいさんっ!
兄は食い殺されて、無惨な姿で横たわっていた。
“あ~あ、兄さん。
助けることが出来なくて、かんべんしてくれっ。”
オジは兄を伏し拝みながら、
必ずかたきを取ってやる、と心に誓った。
晩になって、あたりが暗くなった。
暗闇になると、向こうからパアッとあかりがさした。
“来たなっ!”
オジが鉄砲を構えていると、婆さんがニコニコしながらやってきた。
「こんばんは。ようおいでなさっいましたな」
苧を積む桶を抱えて、近づいて来る。
オジは、ダ~ンと鉄砲をぶった。
婆さんは、ただニコニコするだけ。
もう一発、ダーンと撃ったが、婆さんは、ニコニコ、ニコニコ。
オジはハッと気が付いた。
“ああ、この手で兄さんがやられたんだ。”
・・・だが、どこを撃てばいいんだ! 手ごたえがない。
“ああ、困った。どこを撃てば、魔物を殺すことができるんだ!”
“兄のかたきを取らんきゃ、いかねえ。”
ほとほと困って、神様に祈った。
“どこの神様[かんさま]でもよろしいのです。
お聞き届けください。
兄のかたき、取らせてください!”
オジは、思いつく限り、方々の神様に呼び掛けながら、
一心に祈った。
目をつむって、こうして祈った。
(ハナさんは祈る格好をした。)
頭にピッと閃いたことがあった。
<魔物は、影を撃て>
昔の衆が言っていたことだった。
婆さんの桶を狙って、ダ~ンと撃った。
“ギャ~ッ。”
ものすごい叫び声が響くと、辺りは真っ暗になった。
婆さんは、どこかへ行ってしまったようだった。
オジは、
“ああ、よかった。手ごたえがあったのう。
明るくなったら、どこへ行ったか、調べよう。”
朝になって、桶のあった所へ行った。
血を垂らし垂らしして、
魔物(婆さん)は山奥に逃げたようだった。
“兄のかたきを取ることが出来ました。
神様、ありがとうござんした!”
<魔物は、影を撃て>
という古老の言葉を思いだしたことが、
弟の命を救うことにつながったという話である。
なぜ、“影”が魔物であったのか?
例えば、離れた人どうしが共同作業をすることは
可能かを考えているのが、
三輪敬之教授(早稲田大学、理工学部)。
そのためには、相手の動作を
時々刻々 追跡出来なくてはならない。
スーなどは、遠距離同士、相手の立体像の
ホログラフィーを送りあって、
相互に動作をすればよいと考えるが、
どっこい、間合いの情報を送ることは、
現在の技術では無理だという。
遠距離のテニスプレーヤーが、
目の前にいない相手選手と同時にテニスをするのは、
今の情報技術では出来ないという話を
日本を代表するパソコンメーカーのエンジニアから、
前に聞いたことがある。
エアーギターではない、本当にプレイするためには、
テラというレベルの情報量が必要ということだった。
“同じ場所にいる”ということは
・・・三輪氏は「場」の共有と呼ぶが・・・
それほどの事なのである。
遠距離にいる者が、相手と間合いを取れれば、
共同作業が出来るわけだが、
空間を共有出来ているという空間認知力が
その前提になる。
現在のコンピュータのデータ構造は、
論理的つながりであって、空間性を送ることが出来ない。
このデータ構造に、空間性を導入して、
人間の優れた空間認知能力を活用できれは、
より高度なコミュニケーションが取れるという説である。
スーは、メイルを信用出来ないことが多いが
(文章力の上手下手を勘案しても)、
三輪先生の間合い論を知って、目から鱗が落ちた思いがした。
文章では、空間的な想いを伝えることが難しいからである。
ここで先生が着目したのが、影、なんですね。
影は、光があれば必ず出来る。
しかし、のっぺらぼうだから、
“そこに居る”ことは、分かっても、
どういう格好をしているかは分からない。
分かるのは存在していることのみ。
この昔話も、魔物自体は、目前の婆さんではなく、
桶に映っている影である。
目に映る婆さんの姿はあやかしであって、
影こそ実在している魔物の姿、といっている。
(青森の民話「木の上のあねさま 」も参照されたい)
(苧を積む、の分からない人は、おっしゃってください。)
これは、人間が見た目で、
そう認識するのであるから、先生の言葉を借りれば、
認識論的な情報である。
影は一つでのっぺらぼう。
余分な情報がいっさいなく、
存在するかどうかだけを伝えている。
影を狙って鉄砲を撃つことは、
魔物を退治する(存在を消す)有効な手段だったのである。
昔話は、時として奇想天外な発想をするが、
最先端の科学技術を応用すると、
ホラ話ではなく科学的にも実証出来るのではないか、
と思う一例である。