勘右衛門[かんね]どんのほら吹き話
勘右衛門[かんね]どんのおらっしゃった頃にゃあ、
九州にゃあ三人のほら吹きのおらっしゃったちゅうもんな。
ほら吹きちゅうとは、ほんな(本当の)ホラ貝ば吹くとじゃなかと。
太かすらごと(そらごと)ば言わっしゃると。
そんな三人ちゅうたあ、肥後(熊本)ん彦兵衛ちゅう人と、
肥前(佐賀県の町名)ん安兵衛ちゅう人と、
唐津ん勘右衛門どんの三人のことば言うとたい。
(次からは、全国区の読者の理解のために、会話の後ろだけに方言を入れます。)
ある日、肥後の彦兵衛どんと、肥前の安兵衛どんと連れだって、
唐津のかんねどんの家に遊びに来た。
かんねどんは、喜んで酒などを出して、もてなしたそうだ。
三人で話をしていたら、話はだんだん
自分の住んでいる所の自慢話になり、でっかくなっていった。
佐賀の安兵衛どんは、
「佐賀にはな、大昔、大きな楠木[クスノキ]があったのだ。
その影法師は、朝、お天道様[おてんとさま]が出る時には、
武雄の先の有田の町にまで延びるし、
夕日の影は鳥栖[とす]の辺りにまで延びていたということだ。
こんなに大きな楠木は、日本中探してもなかろうが!
(佐賀にゃなあ、大昔、太か楠木のあったっちゅう。
そん影法師は、朝、お天道様の出らすときにゃあ、 武雄ん先、有田ん町にまで延びちょるし、夕日の影は鳥栖んにきにまで延びちょるちゅうばい。
こぎゃん太か楠木ゃあ、日本中 探したてちゃあなかとばい。)」
と言った。
すると、肥後(熊本)の彦兵衛どんは、
すかさず言った。
「肥後(熊本)の阿蘇には、大きな赤牛がいるんだぞ。
その牛ときたら、同じ所におりながら、向きをちょっと変えるだけで、
肥後の野原の草を食べ尽くすことができるそうだ。
こんな大きな牛は、他にはいないだろうな!
(肥後ん阿蘇にゃなあ、太か赤牛のおるとたい。
そん牛は同じとこにおって、ただ向きば変えるだけで肥後ん野っぱらん草ば
食うこつんできるとたい。
こぎゃんか太か牛は、ほかにゃおるみゃあなあ。)」
と、自慢した。
これを聞いていたかんねどんは、
「それは大きな話だな。
・・・だがのう、唐津には、もっともっと大きな話があるんだ
(そりゃあ太か話ばい。そいどん唐津にゃ、まあだ太か話のあるとばい。)」
と前置きをした。
すると安兵衛どんは、
「またまたおまえは、わし達をはぐらかす話をするつもりだろう?
わしの話より大きな話があるというのかな
(まあた、わりゃ、おっどんば、きゃーはぐらかす話ばすっとじゃろう。
おどんが話より太か話のあるとけえ?)」
と、文句をつけたらしい。
するとかんねどんは、
「まあ、わしの話を聞いてから言えよ。いいかな
(まあ、おいが話ば聞いてみんけ。よかな。)」
と、澄ました顔で言った。
「唐津にはな、とても大きな、大きな太鼓があるんだ。
(太鼓の)胴は、佐賀の楠木をくりぬいて作ってあるんだ。
その太鼓の皮はな、彦兵衛どんの言った
阿蘇の赤牛の皮を張ってあるんだよ
(唐津には太か、何の太か太鼓のあるとたい。
胴は佐賀ん楠木ばえぐって作ってあるとたい。そん太鼓ん皮は、
彦兵衛どんの言うた阿蘇の赤牛ん皮ば、張ってあっとたい。)」
と言った。
(こういうのを砂上の楼閣とでもいうのでしょうか。
どんなに壮麗で見事なお城も、現実には実物ではないのです!)
そこで、二人は、
“しまった。
このままでは、またまたかんねどんにやりこめられるわい。
(こりゃあしもうた。こんままじゃ、まあたかんねどんに、やいこめらるるばい。)”
と、思ったのか、あわてて言った。
「それは大きな話だな。
そんなに大きな太鼓の音は聞いたことがない。
どんな音がするのか、聞かせてもらおう
(そりゃあ太か話しばい。
そいどんそぎゃん太か太鼓ん音は聞いたことはなかばい。)」
と、とぼけた。
するとかんねどんは、平然として、
「それがなあ。
この大きな太鼓を打つとね、九州の辺りばかりでなく、
唐の国にまで響いて、耳は聞こえなくなるし、
海には津波が起こるんだ。
それで殿様が、“打っちゃいかん。”と言われてのう。
打つことができないんだよ
(それがさい、こん太鼓ば打つと、九州にきばっかいでなくて、
唐の国にまで響いて、耳のつんぼになるし、海にゃ津波の起こるけんが、
殿様の打っちゃいかんて言わっしゃっとらすたい。
そいじゃけん、打たれんとたい。)」
と言ったそうだ。
これを聞いて二人は、
「かんねどんの話は大きいけれど、また逃げ方も上手だな
(かんねどんな話の太かいどん。また逃げ方もうまかばい。)」
と言って、しゃっぽを脱いだ。
その後は大笑いをして、三人は仲良く酒を呑んだそうだ。
今日の話はこれまで。
ご遺族と相談の上、黒枠ではなく、生前取材した時の元気な写真を掲載させて頂きます。
スーちゃんには、何度テープを聞いても分からない佐賀弁が多く、母国語の田中氏はこれを快刀乱麻、見事に聞き分けて、 翻訳物に、方言バ-ションの印刷物もつけてお届け頂いた。
完璧なまでにお世話になりました。感謝。
かんねどんの話は、
既出の大分県・吉四六話とどこか似ている。
実在した人物を主人公として、同じような民話を語るという趣向である。
例えば、吉四六さんが
大分の野津町に実在した人物といわれるように、
この人も唐津市大石町の裏町で生まれた紺屋の息子という。
実在したといわれ、
唐津市内には墓まであるらしい。
さっそく、龍源寺(唐津市十人町)に電話をして
住職に伺ってみた。
住職「墓があるらしいことは知っていますが、
(今となっては)どれかということがはっきりしません。
多分もう無縁墓になっていると思う」
とのことだった。
かんねどんには、父親に輪をかけた
ほら吹き息子の話もあるが、
今はもうまつってくれる子孫は絶えたのだろうか。
吉四六さんには、墓はあるものの
血を引く子孫はすでに一人もいなくなっている。
(大分県の吉四六話を参照されたい。)
かんねどんは、吉四六さん同様に、
ひょうきんで面白い人だ。
いつも貧乏でピーピーしているので、
ずるいことをしたり人を騙したりするが、
ついつい失敗もする。
ことに、とてつもないほら話をするあたりが、彼の真骨頂だ。
聞いている方は、ほらを吹いているのが十分に分かりながら、
奇想天外でユニークな
“ほら話の世界”に入り込んでしまう。
かんねどんが、龍源寺の和尚さんに呼ばれて、
ほら話を献上したときには、話はだんだん大きくなり、
ついに、とめどもないほら話になってしまった。
“黒田の殿様の衣装に鳥がウンチを引っかけた。
そのときに、家来はすぐさま衣装を取り替えた。
次に頭にウンチが落ちたとき、
家来は殿様の首を切り落として、
持参した黒田公の首とすげ替えた。
不思議にも黒田公は若くなり、若殿様になってしまった。”
と話して、和尚さんから、
まんまと1両をせしめたりするのである。
こういうほら話は、口承ごとの独壇場と思われる。
本で読むより、テレビなどで見る方が迫力がある。
話し手のくるくる変わる表情や声音は、
話の内容に生き生きとした生彩を添える。
たとえば、浪速の芸人、上沼恵美子は、笑福亭仁鶴によると、
“人生バラ色、おしゃべり七色”の紹介のあと、
テレビ番組「笑百科」で、こんなことを言う。
「昔のこと、婚約のプレゼントに父が、
“淡路島を住んでいる人も、一緒に付けてやろう。”
と言って、
“ついでに小豆島もやるよ。”
と、言いましてん。
ま、そんなもん、貰うてもね、
面倒臭いから断わったんですねん」
聴衆も出演者もどっと笑う。
口から出まかせであっても、みんなはひととき楽しむ。
ほら話や人を傷つけない大うそ話のエッセンスは、
意表を突いたユーモアである。
浪速のお笑いは、どこかで
九州のほら話の流れを引いているのだろうか。
あるいはそれぞれ独自の出自によるのだろうか。
最後に、故柴田雄一郎氏のこと。
氏は、5~6才の頃、一緒に寝ていた祖母から
昔話をよく聞いた、という。
これは、大正8~9年頃に当たる。
また、小学校や中学校で社会科を担当し、
民俗や方言に対する理解と深い関心から
昔話を収集するようになり、
呼子町50周年事業として、1978年、
呼子町役場が刊行した町史を編纂し活動した。