べこを連れた雪女

(山形県新庄市)

昔々、あったけど。
ある村サ、太吉というきかない野郎っこいたけど。
同い年位に比べると、背も大っきいし、力もあるもんだゲ、
いつでもガキ大将なって、ほして、威張ってナけど。

語る斉藤しづえさん(2002年2月、“みちのく民話祭り”)
語る斉藤しづえさん
(2002年2月、“みちのく民話祭り”

(次からは全国区の読者の理解のために、
会話だけに方言の注を入れます。)

ある年の正月すぎ、小正月頃になって、
昨日もおとといも降り続いた雪が、
今日の昼間近くなって、
やっと止んで、カラッとした
いい天気になったけど。

二日も家に閉じ込められていたヤロク達、
外に出てきて、誰言うとなく、

「そりに乗りに行こう(そりっこ、乗りんね)

と、呼びかけると、
たちまち、自分が板乗りするそりを担いで7、8人集まってきた。

それに乗って、村はずれの山に出かけた。
二日も積もった雪だから、
ヤロク達は、雪を踏んで溝付けするのは、大変だった。
そういう時に太吉は家の中にいて、こんなことを思っていた。

“ふん、馬鹿者だ。そりっこ乗りに出かけたな。
なら、おれ、後から出かけるベ”

家の婆ちゃんは、

「太吉や、そりに乗りに行ってもいいけど、晩がたになると、
雪女が来るから、早く帰れよ
(そりこ乗り行ったっていいサケ、
晩がたなると、雪女来るサケ、早く帰んなねね)

「馬鹿なこと、雪女なんか来るもんか(馬鹿だな、雪女来るもんでね)

早く行ったワラシ達(子ども達)、一生懸命に働いて、
滑り易くなった頃、太吉はそりを担いで出かけた。

「よけろ、よけろ。おれ、さきに行く」

そう言って、人をかきわけた。
小さい(ちゃっこい)ワラシ達は、どうしても太吉にはかなわないので、
よけて乗せることになった。

太吉はいい気分・・・

(新庄のジャイアンといったところですね)

ワラシ達は、“今度はオラ達の番だ”と、
急いで(わらわらと)上って行っても、
太吉がさっと横入りするので、滑るひまがない。
仕方がないので、ワラシ達は小さな坂を登り、
そんな坂を越え越えしてそりに乗っていた。

みんな夢中になって、乗っていた。

次第に日暮れ近くなった。
小さな子ども達は(ちゃっこいワラシ達)は、

「早く帰らないと叱られる。
雪女が来ると、恐ろしいから帰る
(おら、行くワ。早くいなねえと、ごしゃがれるもの。
雪女来ると悪いサケ、行くワ)

みんなも

「そうだそうだ。
家の人達に叱られると悪いから、もう帰ろう
(んだ、んだ。ごしゃがれると悪いサケ、行くべワ)

と言いながら、みんな帰ってしまった。

太吉は、

「馬鹿者だ。そりに乗っていると、晩がたになるもんだ。
晩がたに余計すべれるのだ
(そりこ乗っちゃ、晩がたになるもんだ。よけい滑んのだ)

と、威張って一人してそりに乗っていた(乗りかたをした)

しかし・・・

陽が半分山に落ちると、急に夕暮れ近くなって来た。
・・・さすがの太吉も淋しくなった。

“誰もいないんだぞ”

と周りを見渡すと、
よけいに淋しくなってきた。

そのとき、なぜか婆から聞いた雪女の話を思いだした。

「うわっ、おれも行くワ、行くワ、行くワ」

と、恐ろしくてたまらなくなった。

鳥山石燕画「雪女」
鳥山石燕画「雪女」
川崎市市民ミュージアム所蔵

そりを肩にして、帰ろうとして
道の方に出てきた。

そのとき、向こうの方から
何か白いものが、
ふわり、ふわり、ふわりと歩いて来た。

太吉がよく見ると、白い女[おなご]
白いべこ(牛)をひいて、
こっちに近づいて来た。

白いべこの鼻先を右手に持って、
左手には手桶を持っていた。

“どこの人だろう?”

先に進もうと思っても、足が動かない。

太吉は、黙ったまま立っていた。

おなごも黙ったまま立っていた。

太吉の顔をじいっと見つめた。

太吉は、気味悪くて気味悪くて、
まるで背中に水をポツリと入れられたように、
ザザーッと寒気がした。

その女は、じいっと太吉を見て“来い、来い。”というように、
手招きした。

「誰が行くもんか! 行かない、行かない」

太吉は気味が悪くて、いやいやをしながら、足をふんばった。

ところがどうしたことか、
太吉の足はひとりでに女の方に、ズーッと動いてしまう。

心とは反対に、
太吉の足は女の方に向かって行く。

女は、太吉の顔をじーっと見つめて、
べこの鼻先の手綱を太吉に握らせた。

・・・なんと冷たい手だろう。

太吉は女の氷のように冷えた手に触れると、
頭の先から足の先まで、
(すが)でも立てられたみたいに、ザーッと寒くなった。

その女は、左手に持っている手桶を脇に置いて、
まるで煙が歩くように、
ふわり、ふわり、ふわりと木の方に歩いて行った。

木の枝に積もっている雪をどっさり手にとると、べこにかけた。
べこは、まるでこぬかか、ふすまを食うように、
ぺろり、ぺろり、ぺろりと舌で巻いて
たちまち食ってしまった。

太吉は身体が動かないので、立っているしかない。
ぶるぶる、ぶるぶる震えながら、じっと見ていた。

女はまた別の枝から雪を持ってきて、べこにひっかけた。
べこは、雪をぺろり、ぺろり、ぺろりと
たちまち食ってしまった。

そうすると、女は手桶を手にべこの腹の下にしゃがんで、
乳っこを絞り始めた。
雪をいっぱい食ったためか、乳の出ること、出ること。

チュッチュッ、チュッチュッ、

たちまち手桶に山盛りになった。

太吉が震えながら見ていると、
女は乳を手ですくって目の前に突き出した。
今までは、鬼みたいな恐い顔だったが、
このときは優しく笑い顔になって、
“飲め、飲め。”といわんばかりに、差しだした。

太吉は気味が悪くて、

“そんなもの、飲むものか! 誰が飲むか!”

と心の中で思って歯を食いしばった。
女が顔をガーッと寄せてきた。

・・・うわわ!

女は、顔にバシャッと乳をかけてきた。
太吉は、よけようとしゃがんだまま、訳が分からなくなった。

・・・何時間経ったものだか、
気づいた時には、冷やっこい雪の中に
スパッと仰向けになったまま、寝ていた。

辺り一面の銀世界。

雲の間からは星がキラキラと輝いていた。

蔵王の樹氷
蔵王の樹氷
写真提供:川端堅四郎氏
(蔵王に生まれ育ち蔵王を撮り続けているプロのカメラマン)

「ああ、おれ、家に帰らねば。
親たちが心配したろう、さあ帰ろう
(帰んね~のだ。おとっつアと、かかっつア心配したベ。帰んね、帰んね。)

太吉はしおらしく、そんなことを思ったが、
口は動かないし言葉も出ない。
手足は少しも動かない。

“どうなったんだろう。”

そう思うと、涙ばかりがどっと溢れた。

・・・遠くの方から、
おとっつアとかかっつアが、太吉の名を呼ぶ声がした。

「太吉やあ、太吉やあ、太吉やあ~」

太吉は

「おれ、ここに居るウ」

と言ってみるが、声が出ないし身体も動かない。
深い雪にスポッとはまって、
みんなに教えることができない。

近所の人達、村の人達、
総がかりでたいまつをかざして探してくれたので、
どうにか見つけてくれた。
息も絶えだえで、家に帰った。

(しづえさんのコメント・・・
だから、年寄りや親のいうことは、聞くものだよ。
また、友達をいじめたり意地悪をするもんではないよ。)

どんべすかんこねっけど。

スーちゃんのコメント



【語り部】 斉藤しづえさん
(大正10年<1923年>3月生まれ)
【取材日】 2002年5月5日
【場 所】 山形県新庄市、ふるさと歴史センター
【方言指導】 本澤邦宏氏(山形観光センター所長)
【取 材】 藤井和子

これは東北地方独自の雪女の昔話である。
人口にかいしゃしているのは、小泉八雲の「雪女」で、
大筋は前出した横手(秋田県、土谷和夫氏)や、
新庄(山形県、斉藤しづえさん)「雪女」
同じ話なので、参照されたい。
どこでも共通しているのは、
雪のように白い肌に漆黒の髪をして、
白い着物を着た女である。

(これに、“りんごのような頬を持つ”のなら、
おなじみ「白雪姫」ですが、
そうではないのが、この雪の妖怪です)

しんしんと降り積もる雪景色と、凍り付くような寒さ・・・
雪女は死の恐怖をシンボリックに想像させる、
美と冷酷の極みのような想像上の生き物である。
凍死直前の何ともいえない甘美な眠り、
これを幻覚症状の中でかいま視る性的欲求という人もいる。

新庄市内の雪景色
新庄市内の雪景色

スーちゃんが雪女を不思議に思うのは、
「決して年を取らない嫁」というくだりだった。
本篇の話は、雪女が仕掛けたにもかかわらず、
若者は凍死せずに命拾いをする。
しかし、他の話では若者の家に嫁としてはいりこんで、
“何年経っても老いない女”として描かれている。
これは雪女の属性の一つであろうか?

人は、時間とともに必ず老いて、
やがて誰にも等しく死がやってくる。
年を取らないことは、もはや人間を超えた存在である。
ある人は、神と呼ぶし、
また別の人は悪魔と呼ぶだろう。
50年生きれば、50年分の老いが確実に身体に刻印を残す。

老いと心の若さ、をかつて“体験した”ことがあった。
スーちゃんが、ワイオミングで出会った老婦人、
ミセス・ダンネワールドは、
カジマヤー(沖縄、前出の話ではないが、
老いを超越した人だった。
85歳にして、ララミーからデンバー(隣接のコロラド州)までの
山道、4時間を一人で運転した。
途中でハンドルにもたれてちょっと仮眠した以外は意気軒昂。

「後ろの車の男の運転は本当にへたくそ!」

なんて、こちらに言うのである。

1920年代初めに
コロンビア大学(英文学)で修士号を取ったという。
1920年とは大正9年である。
なんと、日本では小学校を卒業後、
5年制の女学校(もしくは4年制)に進学するか、
2年制の高等科や、1年制の専攻科に進んだ時代であった。
すでに2つの国立女子高等師範学校があったとはいえ、
女性が大学院まで進学したアメリカとは、
息を呑むほどの差があった。
少し前の1916年には、
全国の大学は4校、学生数は7,448人。
女性は人口の半分というのに、圏外にあった。

ご亭主亡き後、未亡人になっても一人の生活をしっかり楽しみ、
州の婦人会の重要な役割をテキパキとこなしていた。
この人からは、老いることの愚痴を
いっさい聞いたことはなかった。

・・・息子、娘はそれぞれ養子だが、
彼らを育てるのは楽しみの一つだった。
・・・“今日は、お菓子を焼いたから”と、
お招ばれすると♪庭の千草(The Last Rose of Summer)
客間のピアノで弾いて聞かせてくれたりした。

雪女が、肉体的に永遠の若さを続ける化物だとしたら、
この人は、ウルマンの青春の歌のように
“青春とは心の若さである”を生きていた。
生身の人間(human beings)としてね。

どんべすかんこねっけど